蠱毒、凡庸における生物、轆轤肉のクロニクル

【画】
蠱毒



【音】
『Living things in mediocrity』

http://voon.jp/a/cast/?id=624xyre3g9g53bl8#seal


  *  *


轆轤肉のクロニクル』著・行尸走肉


受肉期】

米の雨が降る。
般若湯を浴びた犬薺が吐いた執着心の灼熱で霰に成る。
霰に降られた蓮華蜂蜜のベンゼン環が乱痴気に濡れて、
観音開きの喉仏から大挙する粟が眠る雷を起こす。
米の雨が降る。
肺炎のゲイラカイトに積る雲母の空母の分母から溶樹の塩素分子が育つ。
米の雨が降る。
縄文杉餓えて防砂林喧しい。


【幼肉期】

浅知恵熱の風上に置いた匂い立つマイコプラズマを鑑とするぬばたまのハルツバージャイトが共軛すれば、
御前さんの曙光は文弥の旋律からイメージクラブの釣り銭に落ちる。
劣情が金科玉条パラフィン蝋細工の蝶は檜扇の上でシャハナーズに変わって、
それから、僕達は日蝕と一緒に自己紹介すれば宜しい。


【中肉期】

世人に茹だる悪癖のプリュームが引く尻尾を切れば、
他愛は無くとも他意の有る現状に優しい廃水が運河に流れる。
美醜の彼岸に爛漫の天真が天中殺に購って、
スワロフスキー・クリスタルの瓜坊が畔を走る憂き目の糸を糾って、
先祖返った赤海亀が産み落とす感動中毒に抗って外連味で煮込む癪の虫。


【筋肉期】

烏柄杓と鳥兜の生い茂る複素数平面の上、
グラファイトで練り上げられた第?種国家公務員の番が斜文織りの睡眠時間を横に裂く、
その合図で始まる殺陣の侍ブルーが農奴ドドメを切り捨て、
独裁体制礼讚団体の涙黒子が弾け、
親切心の骨髄が間欠泉になって湧き、
タランチュラオオベッコウバチが虹を噛み拉く。


【贅肉期】

てにをは狂いの事務員がエチレンポリオキシプロピレングリコールの汗に浸り四苦八苦を攪拌する。
天井を擦る不完全テンプス小プロラツィオの中で育つ凡百年の蟲毒が垂らすマルピーギ管をくわえた顧客に湯呑みの中の嵐は亀裂を添え。
贅肉のデルタから不倶戴天のナブラへ、
悪汁の抜けた垢は影を伸ばす。


【屠肉期】

霜降ローレンツ空間で果敢な非可換環ベラドンナに擬態するテロメアの千枚舌を切り落とす朝、
昼はナポリイエローの海にチャイニーズレッドの漆塗箸を入れベルリンブルーの有髄繊維を引き摺り出せば季節が寝返り、
夜は阿と吽の愛の巣に澱むモホロヴィチッチ不連続面でユニタリ群が孤独死する。


【生肉期】

貪食の楔は明るいマクロファージ、貧困のプラセボは黄楊の櫛。
ディシェンヌ型筋ジストロフィの鶯が祝詞旋律でテリトリーソングを歌う真昼間、
赤腹井守がソデフリンを下水道へ垂れ流すと、
ミクロキスティスは積乱雲を真似て矢倉穴熊
その隙に青東屋鳥が分解された羅馬字を集めて史実を捏ち上げる。


【屍肉期】

型板の誘惑はテンペラ画のムカデの如く米噛に忍び寄る、
すべからく舌を甘くし、我々は艾を揉んで好機を打つべし。
砂鉄を掬えば諸手に生える繊毛のトルクに宿る譫妄で大陸棚は茹だる、
寝返り遍歴の年表を綴り飛ぶ種無し腑抜けの蝶番が留まるハナモゲラ特異点で、
ドッグフード頬張って猿踊りするよ俺は。


【枝肉期】

エレクトリックレトリックの庭にはゲンノショウコとクソニンジンが育ち、
エレクトリックレトリックの屋根には自律神経のアンテナが立ち、
窓からは絶滅した二人称が石油になって噴き出し、
寝室には放射性同位体を抱いた無名の素拍子が寝ている。
エレクトリックレトリックには出入口は無く、避難口だけが有る。


【干肉期】

縁側に打ち上げられたマンボウが夜の日時計止めて嘶く、
風切羽枯れたペガサス肉離れ中央競馬で野次られる哉、
幾何学ウツボカズラで乾杯しアカエイ捲り覗く密談、
パンの耳削ぎ我が身仰ぎ伊達禊継ぎ接ぎ息継ぎ食い繋ぎ児戯、
祭日は居ない相手と待ち合わせ場所も決めずにすっぽかされる


【腐肉期】

騒々しい能面共の蓋を開けば、
あの、行動も観察も無い言葉の渦だよ屑だよ星の、紙の、振り子の虜で自動機械の詰まった剥製だよ。
色を仕掛けりゃお目が掛かる、予断の簾が物語る。
赤と黒のオセロが埋まれば、表は虻でも裏は蜂。
皮剥ぎ狸は泥沼浴で泣いた烏が甦る。
尚も、日々老朽化と、向き合いもしない。


【骨肉期】

回線暴徒は花曇り前日に夜泣きする。
粛清の斉唱の岡崎フグメントを縫って鹿威しが外れた箍の仇を打つ。
偏光の隙間に離乳れの早贄、
難攻不落な脱脂綿の両端からスキムミルクとコールタールを吸わせて混じり合う面を象ればエゴの花咲くプロメテオーム。
硫化銅水溶液の半身浴で自惚れに溺れるフナムシ


【霊肉期】

目覚まし時計皿を打つ雨漏りで唖鈴の禍音が鳴る。要石の涎が朝になる。
持回りの見廻りで煮え霧吸う復員が一列に飛ぶ琵琶羽衣を経費で撃ち落として退屈を凌ぎ、
その硝煙を雲梯にして昇れば労働基準法の貯蔵根が鈴生る鍍金郷へ至る。
高野豆腐の林に果実酢の池、左団扇で右に出る者が輪になって残業する


【無肉期】

鎗の雨、濡れた混繰土は影法師。
地面に耳をそばだてたまま三点倒立して物忘れ、しようね。
潮時に頬這う蟻が噂する量子化学の不祥事を犬死にの行商人に横流し
景気良く空に埋もれる棘の湯気を回文の世界喃語で見送って、
忘れずに二人の様に一人して、ずっとそうして、いようね。


【余肉前期】

嘯きて篝火に番うイボタガへ和太鼓叩く身無し児が炭
鉄棒が串刺す影の逆上がり夏の足蹴に大陸地殻
漫ろ言構造式に展開し枳殻垣に縫込むゴミグモ
自然薯の破る沈黙に念珠藻が溢れ反りて空室求む
放蕩のクラミドモナス集いけり鬼が来たりて闌(たけなわ)焼けた
臆見の化石埋もれし層積雲抉る野蛮の質に売る為
ガガンボの脚が散らかる踊り場で打ち水茹だり五稜郭立つ
人身に緑麗し忌憚の葉、鈴生る無残燻すが如く
癇癪婦、矢庭に撒いた卦体糞の深い皺に樟脳を詰む
窒息し葉脈染みた錨の群れ、氷中に未知穿つガロアムシ
アメフラシ産み付けられる弁慶草、春を売り冬を買う姉
雲火事と鉄の砂漠に置き去りのヒトリヒヨケムシ抱く磁力線
なまくらし不眠のツェツェバエ道連れにトリパノソーマ叩き降る窓
反る蛇腹、イオン勾配で笑む重機にピューロマイシン打つネジレバネ
祖々父母の内積に咲く金鳳花炒って偽り煎じて真
渡し箸ハシリドコロの枯葉積む万年床に割れる採算
浜茄子を通行人に供えけり掻爬の手付きで混ぜる鳴き砂
雨垂れが逆さ茶を摘む鮫肌にペロブスカイトの懐刀


【余肉後期】

交番の片隅に肉の襦袢が干してある。
標本の独壇でテナガコガネが膝を打つ。
白濁の花曇りビザンチン柄の雪が降る。
赤んぼのうわ言で絶版される広辞苑
擬宝珠の技法書は草の息の根止まらない。
まるめろの薄皮に暮らす家族は風邪を引く。
蟻を追い海を越え白華煉瓦の塀高く。


【終肉期】

五臓六腑抜作は濁り目を暦にして捲つた。
右耳では椰子蟹カタツツが安売の寓話を語りつつ、
左耳では蚯蚓ウラヅが裏拍子を打ちつつ、
代わる代わる笑う、
眺め長ら目の回る抜作は差詰轆轤肉である、
此んな馬鹿気た仕打ちは運去りと思う間に間に聞いた
左右の完全八部音程違え「憚様。」の慰労が軋む。

顕微鏡を覗くだけの簡単なお仕事です

『画』

【鬱勃】



 *



トルコのロックバンドVolvox解散後
ヴォーカルŞebnem Ferahのソロより


Şebnem FERAH - Bugün
http://www.youtube.com/watch?v=_PkQzoiTzT8&feature=related


Şebnem FERAH - Gözlerimin Etrafındaki Çizgiler
http://www.youtube.com/watch?v=xuTT0XNS1qM&feature=related



 *



顕微鏡、楽しい。
ずっと覗いていたい。

電子顕微鏡、欲しい。
然し、安くて500万円。
http://www.hitachi-hitec.com/em/miniscope/index.html
設置条件や設備投資も考えると、更に掛かる。

光学式なら手が出せる範囲。
ボーナスで買おうか、どうか。



















ツイッター、はじめていた。
http://twitter.com/honznas

茹だる。

【画】

『Die Mäßigung vom Nulljungen(非実在青少年による節制)』

非実在青少年による節制と非実在青少女による怠惰。
象微塵子とダフニアの協力と珪藻の支柱。
三ヶ月藻による分断とボルボックスによる凝視。
勲章藻の臆病にテトラエドロンの傍観に筏藻の嘲笑。

吹き溜まりデッサン×★★★(くろぼしみっつ) !

ひだまりスケッチ×☆☆☆ OP





ugly pray @ DO IT 2008 / 54-71
http://www.dax.tv/?item=2288





【絵】

『瓦解』


Dr.Ph.Martin'sのインク、の混色を、試しています。
slate blueとsepiaを5:3で混ぜると、
水に落として滲ませたとき、黒雲の縁に光が走る、様な、感じで好ましい。


 *



今期は、英文法、独逸語、音楽理論、地球化学、代数学分子生物学を勉強しています。
知るのは、愉し。



 *


板橋区立美術館にて「浮世絵の死角」を見てきました。

三田線の橋、西高島平駅から徒歩15分ほど。
大きな道路と静かな住宅街の間の路地を進み、緑の多い公園の奥に、あります。

階段を上がり受け付けを過ぎると広いロビーになっており、
そこから壁の色が赤、緑、黄となっているそれぞれ3つの展示室があり、
時代やテーマ毎に分けられて、展示されていました。

上方浮世絵、錦絵、木版、墨摺り、近代版画、戯絵、おもちゃ絵、づくし絵など
イタリアはボローニャの浮世絵コレクターさんが集めた約200点。

詳しい内容は、検索とかすれば沢山出ます。



作品の横のプレートには、作家とその周辺、時代背景や主題についての解説は有るのですが、
その絵がどういう画材、技法、手順で描かれ作られているのか、知りたくなりました。
大抵の美術館はそういう解説は無いですけど、何故かは知りません。


それで、
作者の名前とか、流行や派閥とか、絵画の見方とか、
そういうのを忘れてしまって、ただ見よう、と思いました。
というのも、
僕たちは平常、つい有名な名前や高価な評判を探したり、
つい勉強してきた知識や特定の見方に頼った鑑賞をしていて、
「美しいものはコウで、醜いものはアアである」等の審美的経験とか
「自分はこれが好き、それは良い、あれは嫌い、どれは悪い」等の価値観とか
「構図とは色彩とは、パースとは遠近とは、人物静物風景とは、こうである」等の専門的知識とか
予めに観念を持ってから物事に接しますが、
それは、絵を見ているというより、
絵についての感情や経験や知識を見ているのではないか、と思います。
言い換えると、
「視覚から得た刺激に対する反応としての記憶を思考で結び付ける」という操作に夢中で、
そのとき、精神は自己によって選択された部分的要素に執着し、
心は騒がしく、神経は集中していて、
観察は停止し、考えの基礎を失っており、
感情移入や同調、身構えや反発、特定の方向への偏向があり、
知的な、あるいは心的な、興奮や快楽や愉悦に浸っています。
思考という機能は、自ら醸成した経験、過去の集積の内にのみ動くもので、
過去を持ち出して現在に対応する、古い物で新しい物を測る、
頭の中で絵の背後を含めての観念を再構成する作業で、
それは即ち、絵を見ていないという状態です。
勿論、そういったものが必要且つ有効に働く場面や立場というものが有るのかも知れませんが、
そういうのは、そうしたい人達や職業に任せておきます。


僕たちは何の背負うものも無い生身の人間として、目の前の物に立ち会う必要があります。
何故かというと、過去に拘束されたままでは、現在に出会う事が出来ないからです。
美しいものも、醜いものも、そうでないものも含めて、
現在に出会わないという事は、過去に生きている事であり、
それは機械的に反射する神経の塊であり、言わば死んでいるという事です。

僕たちは不安定、不確かさ、分からない事などを恐れます。
その為、過去による拘束を好み、習慣の奴隷に甘んじ、観念の信仰をしたがり、
それらは偏見や臆病、攻撃性や神経症を作り、自ら進んで不自由さを選び続けます。
生きているということは、剥き出しで晒されているという事ですが、
それが怖くて嫌なので、僕たちは記憶や経験などで武装します。
恐怖したままでは、何事からも自由は無く、観察や理解は妨害され不完全なものとなります。

それで、僕はどうしたいでしょうか。
思考も、感情も、生活の全てが、習慣や記憶に拘束されており、
それが結果的に、葛藤、矛盾、退屈、暴力、気晴らし、無気力、
うんざりするような物事の繰り返しで、恐怖にかられたまま、時間の堆積に埋もれて過ごします。
今までのままで居たい、それを継続したいでしょうか。
それとも、もう終わらせたい、変わることを理解したいでしょうか。

実際の事実として、自分が特定の見方や知識に依存しているという状態を見ていること、
それから離れたり、矯正したり、反対の事をするのではなく、
何の動機も無しに「自分は過去に依存している」と気付く瞬間についていきます。

事実に留まり、自由にありながら現在に生きる必要性を見るとき、
恐怖に濁っている現状の危険を見るとき、「どうやって?」とは問いません。
何かしらの目標、目指すべき方向が想定されている時にだけ「どうやって?」は問われます。
「向かう所を探している」という状態そのものが、既に「結果を求める動機」になっており、
それは特定の知識や理論や信仰や信念を”見付け”ますが、それは死んでいるものです。
取っ換え引っ換え死体に縋り、期待と裏切り、希望と失望を繰り返します。


それで、今までの鑑賞は、やめて、直接に絵を見てみよう、と思い、
では、直接に見るというのはどういうことでしょうか。
何も知らない、空っぽの状態で、静かに、ただ絵の前に居て、
「この線は、どういう気持で、どんな意図で、どういう方向で、どれくらいの力で、引いたんだろう」
「この色は、何と何を混ぜて、どういう道具で、どんな紙に、どんな条件で塗ったんだろう」
「どの人物から描き始めたんだろう、どうしてこの角度で、この配置なんだろう」
「何が描きたくて、何を伝えたくて、何がしたくて、誰に売りたくて、どんな状況で描いたんだろう」
等と、取り留めもなく断続的に考えながら、他の方の邪魔にならぬ様に注意しながら、
筆の線を手で追ったり、人物を隠したり、舐める様にして見ていました。


それで、
僕はその時その行為によって感じた事を、
詳細な論文や饒舌な説明で語る知能も技術も無いですし、
絵画や音楽で表現する才能も有りません。
それで構いません。

しかし、メモ帳でも持って行って、その時の尋究を記録しておけば良かった、と思いました。



どうして、美術館や額縁の中では詳細に鑑賞するのに、
外の草木や人の仕草表情には関心が無いのでしょうか。
どうして、作家が書いた物語や知識人の論文は熱心に読み込むのに、
何でもないわたしやあなたの書いた文章や放つ言葉は蔑ろに扱うのでしょうか。
どうして、演奏家やステージの演奏には聞き入るのに、
虫や鳥の鳴き声には鈍感だったり、生活や機械の出す音には苛立つのでしょうか。

僕たちはこういった自身の矛盾やぎこちなさに気付き、
それに対して素朴な問いを感じるとき、観察を初めます。

誰かが納得するような理由付けや、あるべき姿を目指しての訓練は、
実際の事実から遠退き、問題への溝を深くするだけで、意味が有りません。

直接の観察の中で、単純に考え、動機無く理解していくとき、
教える人も教えられる人も居ない、一体となった学びの状態があるように思います。

僕たちは、正しく観察し、正しく考えているでしょうか。


 *


見ること、聞くこと、を考えています。

名付けることの無い観察、騒ぎ乱すことの無い傾聴、
そういった受動的な単純さの在り方。


デッサンの教則本を読んで、練習していました。

デッサンの基本となるのは、色や形の観察だそうです。

僕たちが普段、物を見るとき「これは梨」「これは掃除機」
あるいは「この人は母、部下」「ここは目、鼻、口」等という名前に頼っています。
名前には、物理的な知識や、感情的な情報が付加されますが、
厳密なデッサンをするとき、それらを破棄してしまう必要があります。
というのは、慣れない僕たちが絵を描くとき、まずイメージで描いてしまうからです。
試しに、まずは何も見ず、紙に手を描きます。
次に、実際に手を見ながら描いてみます。
それは、ほとんど違うものになっています。
物の認識を行うとき、いかに記号、象徴、強調に頼っているかということです。

デッサンを行うとき、何の知識も思考も持たない状態で、ただ見えるままに見ます。

目測、パース、明暗、遠近などの技術的知識も、利用に注意が必要です。

練習を重ねれば、身体的な馴染みと、経験の固着と共に、
それなりにデッサンを習得していくのかも知れません、しないかも知れません。

で、それは、生きている中での、ある一つの面です。


上手に絵画を描くには、継続的な訓練、身体的な才能や特性、環境や金銭の余裕などが必要です。
まして、売れるものを描けて生活出来るには、時代や商業的需要に沿った資質も必要でしょう。
しかし、幼い頃から訓練を続けてきた人、生計に囚われずに生活出来る財産のある人、
周囲に教えて支援してくれる環境がある人、先天的に高い能力を持つ人、
そういう、特別に恵まれた人たちは別として、僕たちにはそれらは有りません。

では、芸術を享受出来るのは、そういった選ばれた人たちだけでしょうか。
僕たち凡人は、何も手出し出来ないでしょうか?


どうして、何かに執着するでしょうか。
どうして、成功したい、誉められたい、稼ぎたいという欲望があるのでしょう。
どうして、個人の考え、噂、評判、言い伝え、評価に振り回されるでしょうか。

生は大気や川のように、現在に流れ動き、全体が繋がり関係しています。
一部分を切り出して、どうこう言う事は、生きている事実に対応しません。
大きな川から一筋、小さな水たまりが出来ても、それは川ではありません。
風が穴や建物の影に迷い込むとき、動きは止まり、全体から切り離されます。
水や風によって小さな場所に吹き溜まる堆積物は、やがて重く鬱屈し、腐敗します。
そこで、どうして意識が部分に集中し執着するのかを観察する時、
それは障害物に気付くという事ですが、部分が全体に還元されます。
吹き溜まりと周囲に、部分と全体に気付くことで、
風が大気の流れへ帰り、水は流れの中に帰り、動きを取り戻します。

一つの断片に固執しないとき、葛藤無く出来る事をしていく事が出来ます。
部分と全体の関係を含めて見るとき、無理なく自然な行為があります。


必要なのは、生きる為の技と術の全体であると思います。
身体、心、知識、自然、生活、仕事、家事、人と人の関係、
生きている全て有象無象の物事を正しい秩序に置く技と術が、あります。

名前によってイメージを持つなら、それを名付けないでおきます。

僕たちには、観察と傾聴のそれがあります。
それには、特別な条件も時間的な蓄積も無く、今すぐ始められます。
表現される必要は有りません。それは恵まれた人たちに任せておきます。

僕たちの古い思考、感情、怒り、悲しみ、価値観、判断、葛藤、歪さ、
そういった無形の吹き溜まりに対しても、観察と傾聴をする事が出来ます。

驚き、新鮮、興味、関心、感動がある瞬間の、
櫻児のように生き、技と術が働き、正しい秩序がある、それを見出したい。

それで、現在に生きます。