吹き溜まりデッサン×★★★(くろぼしみっつ) !

ひだまりスケッチ×☆☆☆ OP





ugly pray @ DO IT 2008 / 54-71
http://www.dax.tv/?item=2288





【絵】

『瓦解』


Dr.Ph.Martin'sのインク、の混色を、試しています。
slate blueとsepiaを5:3で混ぜると、
水に落として滲ませたとき、黒雲の縁に光が走る、様な、感じで好ましい。


 *



今期は、英文法、独逸語、音楽理論、地球化学、代数学分子生物学を勉強しています。
知るのは、愉し。



 *


板橋区立美術館にて「浮世絵の死角」を見てきました。

三田線の橋、西高島平駅から徒歩15分ほど。
大きな道路と静かな住宅街の間の路地を進み、緑の多い公園の奥に、あります。

階段を上がり受け付けを過ぎると広いロビーになっており、
そこから壁の色が赤、緑、黄となっているそれぞれ3つの展示室があり、
時代やテーマ毎に分けられて、展示されていました。

上方浮世絵、錦絵、木版、墨摺り、近代版画、戯絵、おもちゃ絵、づくし絵など
イタリアはボローニャの浮世絵コレクターさんが集めた約200点。

詳しい内容は、検索とかすれば沢山出ます。



作品の横のプレートには、作家とその周辺、時代背景や主題についての解説は有るのですが、
その絵がどういう画材、技法、手順で描かれ作られているのか、知りたくなりました。
大抵の美術館はそういう解説は無いですけど、何故かは知りません。


それで、
作者の名前とか、流行や派閥とか、絵画の見方とか、
そういうのを忘れてしまって、ただ見よう、と思いました。
というのも、
僕たちは平常、つい有名な名前や高価な評判を探したり、
つい勉強してきた知識や特定の見方に頼った鑑賞をしていて、
「美しいものはコウで、醜いものはアアである」等の審美的経験とか
「自分はこれが好き、それは良い、あれは嫌い、どれは悪い」等の価値観とか
「構図とは色彩とは、パースとは遠近とは、人物静物風景とは、こうである」等の専門的知識とか
予めに観念を持ってから物事に接しますが、
それは、絵を見ているというより、
絵についての感情や経験や知識を見ているのではないか、と思います。
言い換えると、
「視覚から得た刺激に対する反応としての記憶を思考で結び付ける」という操作に夢中で、
そのとき、精神は自己によって選択された部分的要素に執着し、
心は騒がしく、神経は集中していて、
観察は停止し、考えの基礎を失っており、
感情移入や同調、身構えや反発、特定の方向への偏向があり、
知的な、あるいは心的な、興奮や快楽や愉悦に浸っています。
思考という機能は、自ら醸成した経験、過去の集積の内にのみ動くもので、
過去を持ち出して現在に対応する、古い物で新しい物を測る、
頭の中で絵の背後を含めての観念を再構成する作業で、
それは即ち、絵を見ていないという状態です。
勿論、そういったものが必要且つ有効に働く場面や立場というものが有るのかも知れませんが、
そういうのは、そうしたい人達や職業に任せておきます。


僕たちは何の背負うものも無い生身の人間として、目の前の物に立ち会う必要があります。
何故かというと、過去に拘束されたままでは、現在に出会う事が出来ないからです。
美しいものも、醜いものも、そうでないものも含めて、
現在に出会わないという事は、過去に生きている事であり、
それは機械的に反射する神経の塊であり、言わば死んでいるという事です。

僕たちは不安定、不確かさ、分からない事などを恐れます。
その為、過去による拘束を好み、習慣の奴隷に甘んじ、観念の信仰をしたがり、
それらは偏見や臆病、攻撃性や神経症を作り、自ら進んで不自由さを選び続けます。
生きているということは、剥き出しで晒されているという事ですが、
それが怖くて嫌なので、僕たちは記憶や経験などで武装します。
恐怖したままでは、何事からも自由は無く、観察や理解は妨害され不完全なものとなります。

それで、僕はどうしたいでしょうか。
思考も、感情も、生活の全てが、習慣や記憶に拘束されており、
それが結果的に、葛藤、矛盾、退屈、暴力、気晴らし、無気力、
うんざりするような物事の繰り返しで、恐怖にかられたまま、時間の堆積に埋もれて過ごします。
今までのままで居たい、それを継続したいでしょうか。
それとも、もう終わらせたい、変わることを理解したいでしょうか。

実際の事実として、自分が特定の見方や知識に依存しているという状態を見ていること、
それから離れたり、矯正したり、反対の事をするのではなく、
何の動機も無しに「自分は過去に依存している」と気付く瞬間についていきます。

事実に留まり、自由にありながら現在に生きる必要性を見るとき、
恐怖に濁っている現状の危険を見るとき、「どうやって?」とは問いません。
何かしらの目標、目指すべき方向が想定されている時にだけ「どうやって?」は問われます。
「向かう所を探している」という状態そのものが、既に「結果を求める動機」になっており、
それは特定の知識や理論や信仰や信念を”見付け”ますが、それは死んでいるものです。
取っ換え引っ換え死体に縋り、期待と裏切り、希望と失望を繰り返します。


それで、今までの鑑賞は、やめて、直接に絵を見てみよう、と思い、
では、直接に見るというのはどういうことでしょうか。
何も知らない、空っぽの状態で、静かに、ただ絵の前に居て、
「この線は、どういう気持で、どんな意図で、どういう方向で、どれくらいの力で、引いたんだろう」
「この色は、何と何を混ぜて、どういう道具で、どんな紙に、どんな条件で塗ったんだろう」
「どの人物から描き始めたんだろう、どうしてこの角度で、この配置なんだろう」
「何が描きたくて、何を伝えたくて、何がしたくて、誰に売りたくて、どんな状況で描いたんだろう」
等と、取り留めもなく断続的に考えながら、他の方の邪魔にならぬ様に注意しながら、
筆の線を手で追ったり、人物を隠したり、舐める様にして見ていました。


それで、
僕はその時その行為によって感じた事を、
詳細な論文や饒舌な説明で語る知能も技術も無いですし、
絵画や音楽で表現する才能も有りません。
それで構いません。

しかし、メモ帳でも持って行って、その時の尋究を記録しておけば良かった、と思いました。



どうして、美術館や額縁の中では詳細に鑑賞するのに、
外の草木や人の仕草表情には関心が無いのでしょうか。
どうして、作家が書いた物語や知識人の論文は熱心に読み込むのに、
何でもないわたしやあなたの書いた文章や放つ言葉は蔑ろに扱うのでしょうか。
どうして、演奏家やステージの演奏には聞き入るのに、
虫や鳥の鳴き声には鈍感だったり、生活や機械の出す音には苛立つのでしょうか。

僕たちはこういった自身の矛盾やぎこちなさに気付き、
それに対して素朴な問いを感じるとき、観察を初めます。

誰かが納得するような理由付けや、あるべき姿を目指しての訓練は、
実際の事実から遠退き、問題への溝を深くするだけで、意味が有りません。

直接の観察の中で、単純に考え、動機無く理解していくとき、
教える人も教えられる人も居ない、一体となった学びの状態があるように思います。

僕たちは、正しく観察し、正しく考えているでしょうか。


 *


見ること、聞くこと、を考えています。

名付けることの無い観察、騒ぎ乱すことの無い傾聴、
そういった受動的な単純さの在り方。


デッサンの教則本を読んで、練習していました。

デッサンの基本となるのは、色や形の観察だそうです。

僕たちが普段、物を見るとき「これは梨」「これは掃除機」
あるいは「この人は母、部下」「ここは目、鼻、口」等という名前に頼っています。
名前には、物理的な知識や、感情的な情報が付加されますが、
厳密なデッサンをするとき、それらを破棄してしまう必要があります。
というのは、慣れない僕たちが絵を描くとき、まずイメージで描いてしまうからです。
試しに、まずは何も見ず、紙に手を描きます。
次に、実際に手を見ながら描いてみます。
それは、ほとんど違うものになっています。
物の認識を行うとき、いかに記号、象徴、強調に頼っているかということです。

デッサンを行うとき、何の知識も思考も持たない状態で、ただ見えるままに見ます。

目測、パース、明暗、遠近などの技術的知識も、利用に注意が必要です。

練習を重ねれば、身体的な馴染みと、経験の固着と共に、
それなりにデッサンを習得していくのかも知れません、しないかも知れません。

で、それは、生きている中での、ある一つの面です。


上手に絵画を描くには、継続的な訓練、身体的な才能や特性、環境や金銭の余裕などが必要です。
まして、売れるものを描けて生活出来るには、時代や商業的需要に沿った資質も必要でしょう。
しかし、幼い頃から訓練を続けてきた人、生計に囚われずに生活出来る財産のある人、
周囲に教えて支援してくれる環境がある人、先天的に高い能力を持つ人、
そういう、特別に恵まれた人たちは別として、僕たちにはそれらは有りません。

では、芸術を享受出来るのは、そういった選ばれた人たちだけでしょうか。
僕たち凡人は、何も手出し出来ないでしょうか?


どうして、何かに執着するでしょうか。
どうして、成功したい、誉められたい、稼ぎたいという欲望があるのでしょう。
どうして、個人の考え、噂、評判、言い伝え、評価に振り回されるでしょうか。

生は大気や川のように、現在に流れ動き、全体が繋がり関係しています。
一部分を切り出して、どうこう言う事は、生きている事実に対応しません。
大きな川から一筋、小さな水たまりが出来ても、それは川ではありません。
風が穴や建物の影に迷い込むとき、動きは止まり、全体から切り離されます。
水や風によって小さな場所に吹き溜まる堆積物は、やがて重く鬱屈し、腐敗します。
そこで、どうして意識が部分に集中し執着するのかを観察する時、
それは障害物に気付くという事ですが、部分が全体に還元されます。
吹き溜まりと周囲に、部分と全体に気付くことで、
風が大気の流れへ帰り、水は流れの中に帰り、動きを取り戻します。

一つの断片に固執しないとき、葛藤無く出来る事をしていく事が出来ます。
部分と全体の関係を含めて見るとき、無理なく自然な行為があります。


必要なのは、生きる為の技と術の全体であると思います。
身体、心、知識、自然、生活、仕事、家事、人と人の関係、
生きている全て有象無象の物事を正しい秩序に置く技と術が、あります。

名前によってイメージを持つなら、それを名付けないでおきます。

僕たちには、観察と傾聴のそれがあります。
それには、特別な条件も時間的な蓄積も無く、今すぐ始められます。
表現される必要は有りません。それは恵まれた人たちに任せておきます。

僕たちの古い思考、感情、怒り、悲しみ、価値観、判断、葛藤、歪さ、
そういった無形の吹き溜まりに対しても、観察と傾聴をする事が出来ます。

驚き、新鮮、興味、関心、感動がある瞬間の、
櫻児のように生き、技と術が働き、正しい秩序がある、それを見出したい。

それで、現在に生きます。