紋切り頭を叩いてみれば、情報強者の音がする(笑)

これから進むのは、観察と探求です。
非難や批判、賛同や正当化、穿った意図、意見や主張、評価や判断、権威や知識、
そういった一切を捨てて下さい。
それらに固執する事は、共同した理解の妨げになることを見ていきます。
そして、これから調べられることが、正しいか間違っているか分かりませんが、
実際に本当かどうか、自分で考えて、見出して下さい。
それは即ち、真剣にあるという事です。



僕たちは普段、自分の好きや嫌い、快や不快、評価、判断、測量、
感情、感覚、思考について、ほとんど無自覚で無責任です。
自分の言動や思考が、関係や環境へ及ぼす影響について、深く考えません。

「これが好き」「あれは嫌い」
「こうあるべきだ」「そうあるべきではない」
「したい」「したくない」
どうして、そう思い、考えるでしょうか。

心の感じ方や独り言から、他人の苦しみや戦争まで、僕たちには責任があります。
それは、僕は内的にも外的にも、世界と密接に関係しているからです。
明らかに、僕とあなたの関係が、即社会です。
社会を構成する最も基本的な関係は、僕とあなたの関係です。
そして、自分が即他人です。
自分の思考や行為が他人や社会を構成し、反映され、
また自分や周囲に還元され、それは循環します。
ですので、僕は社会であり、僕は世界そのものです。
僕の嫉妬が、人から奪い取り、あなたの憎悪が、人を殺します。
僕の貪欲が、競争に駆り立て、あなたの矛盾が、人を苦しめます。
僕がそれをしないとか、あなたがそれをしているとか、そういう仮定の話ではなく、
人間の問題には、僕もあなたもなく全的に取り組まなければいけないという必要性を見ます。
個人的問題として断片的に取り扱うとき、それは混沌を増大させます。
今、世界の至る所にある葛藤や破壊は、僕とあなたで起こしている物と違いません。

僕やあなたの思考は、家の伝統や学校の教育、国の常識やメディアの流行、
学問的な知識や宗教の迷信、地域や環境の性質、人類史数億年の歴史、
それら全ての複合的な条件付けの結果です。
従って、僕の混乱、暴力、葛藤は、あなたや社会の抱えるそれと同じものです。
僕が暴力的であるが為に、他の人もまた暴力的です。
ですので、世界を理解する為には、まず僕自身を紐解く必要があります。

それらは、言葉上の絵空事に過ぎない、でしょうか。
これは、理論的飛躍ではなく、観察すれば、それは明らかに実生活で起こっています。

僕たちは事実に対して、常識、噂、伝統、学説、理論、結論などで蓋をして、見て見ぬふりをします。
そして、怠惰によって、虚偽によって、臆病によって、混乱によって、
自分が無理解であることを正当化したり、避難したり、逃避したりします。
何よりもまず第一に、自分が不真面目で、何も理解していない、という事実を見る必要があります。

「犯罪や戦争に自分は関係無い。イカレた奴らが起こしているだけだ」と言うでしょうか。
競争や暴力を肯定すること、権威や階級や支配を礼賛すること、国に税金を払う事、
経済的や宗教的な、または政治的な主義や特定のイデオロギーに参加・支持・固執すること、
偏見や悪意を持つこと、伝統や文化に拘ること、他人に対して鈍感であること、
大なり小なりあらゆる行為が葛藤へ、その最終点である戦争へ、
暴力への加担に繋がっている現状、繋がりゆく可能性があります。

これは、それをすべきだとか、それをすべきでないとか、そういう話、意見ではありません。
僕たちの現在についての観察を共に行っているところです。

また、特定の数人を排除したり、合法的に殺す事で、
僕たちは問題を解決したとか、少なくとも一時的には対処出来た、と思っています。
しかし、根本的に解消されない限り、問題は続きます。
「大勢の為に少数の犠牲が必要だ」や「手段は目的によって正当化される」や、
「現実は綺麗事だけではまわらない」と謳っておきながら、
自分の番になれば拒んだり、あるいは受け入れる事によって他人をも殺します。

僕たちは、何かの言葉や考え方や観念を「キレイ事」とか「汚い事」と評して片付けるとき、
その判断の裏手には「現実は汚いものだ」「本来は綺麗であるべきだ」という規範の意識があります。
現在を観察するとき、そこには綺麗も汚いもなく、ただ単純な事実だけがあります。
そして、特定の評価基準による選別的な判断は、現在に対して妥当性を持つでしょうか。
自己の、自己が所属し同一化している道徳や団体の、評価基準があるとき、現在は蔑ろに扱われます。

馬鹿げた混乱と残酷を、終わらせようと思わないのでしょうか。
どうして、僕たちは出来ないと思い込んでいるのでしょうか。

「自分が変わったって何も変わりはしない」と言う時、その実、何も変えたくないのです。
「他の人がやるなら自分もやる」と言うのは、僕が責任を負いたくないからです。
「権力者がやらないと意味がない」と言うなら、僕は奴隷になりたがっています。
「自分に何が出来るのか。個人は無力だ」と言うでしょうか。
僕たちは、魔法か何かのように核兵器を消したり、絵本のような平和を齎す事は出来ません。
それは非現実的です。現に世界は飢えや争いで満ちています。本当に無力です。
理想主義者のようにお題目を唱えたり、教義に従う事も実際的ではありません。
また、特定のシステムや政党政策を支持することは、権威の盲従や思考の停止に繋がり、
今まで行われてきた混乱に多少の調整と修正を加えるだけで、暴力は継続されます。
ボランティアや無償活動は、必要な部分もあるのかも知れませんが、
それを行う人間が無知で歪ならば、その周囲にも混乱が起きていないでしょうか。
厭世的に冷笑する人たちや、厭世的に逃避する人たちは、単に孤立しています。
現実主義を謳って恣意的に操作したい人たちは、野心的で権威の側に回りたがっています。
政治や権力者、導師や有名人に責任を転嫁したり、あるいは縋ったりするでしょうか。

僕たちは、何が正しくて、何が間違いか、自分で考え、自分で行おうとしません。
日常に生活において、実際の現実に対して妥当性のある混乱のない思考を見出す必要があります。


問題の解決は、信仰や政策や理論などといった遠くのものからではなく、
あるいは、卓越した技術者や人間離れした天才など一握の選ばれた人によってではなく、
他のどこでも、他の誰でもなく、今現在の僕たちから始められなければいけません。
その緊急性を見るでしょうか。


そこで、僕は現在進行の危機の中において、
混乱や矛盾が無く、正しく生きる必要性を知覚します。
正しく生きる為には、正しい思考によって、尽くを瞬時瞬時に理解していく必要があります。
理解する為には、原因や動機なく、意図や結果を持たず、ただ真剣にある必要があります。

ですので、現在の僕たちを注視するとき、起こっている様々な問題の束を見るとき、
共通する要点は「どうして僕たちは混乱しているのか?」という事です。


どうして僕たちは、妬み深く、怒り易く、苛立ち気味で、
狭量で、貪欲で、自己中心的なのでしょうか。
それは、自分を守り、保持したいからではないでしょうか。
言い換えれば、恐怖しているからです。
自分が安全でいたい、自分を永続させたい、
その為に、奪い合いと獲得、所有と依存、排他や攻撃、そして孤立などが行われています。

「自分」を構成している諸要素である、文化、伝統、教育、社会的地位、
経験、常識、道徳、思考、感情、観念、習慣、所有物といったものを守る為、
それらに沿わないもの、反対するもの、対立するものを、
規律し、矯正し、支配し、攻撃し、排除しようとします。
それが怒りという感情の仕組みです。

「犯罪者や不道徳者に憤るのは当然だ!」という条件反射を見て下さい、
僕はそれを批判しているのではありません。今は静かに、共に観察して下さい。

また「それは悪い感情でした。もう怒らないようにします」という反省も見て下さい、
その意志はただの理想であり、現実ではなく、怒りを根に持つ動きは尚も怒りの一部です。

今現在の僕が怒りなら、それと共に留まり、観察しています。

なぜ、僕たちは、それほど「自分」が大切でしょうか。

家族や恋人、国家や正義の為、あるいは、現実社会は厳しい、等という誤魔化しを見て下さい。
正当化や決まり文句は、理解の妨害になります。
僕たちはよく、自分を何か別の大きな枠組、塊、想念、集団に同一化しますが、
いずれも自己欺瞞の装飾であり、尚も重要なのは「自分」です。

僕たちは「自分」という感覚が、他人の苦しみや死より、世界の混乱より、何よりも大事です。
「自分」についての観念があり、それの防衛と攻撃がある為、恐怖があります。

ここで、物理的な危機と、心理的な恐怖を確認したいと思います。
物理的な危機の知覚は、自己を挟まない為に恐怖が生まれる隙はなく、
咄嗟に必死に必要な思考と対処をします。
猛獣や毒虫、武器や天災に遭遇した時、僕たちは対処すると思います。
しかし、出来事に対して、時間を挟む隙に自己が介入し、恐怖が発生します。
この違いを明確にする必要があります。

「自分」という感覚を永続させたいので、対立物を、敵を、死を恐れます。
死のイメージは、自分が立ち消えてしまうという想像です。
その為、神や魂や輪廻転生や死後の世界といった知識概念の導入、
墓や血縁、財産や名声や功績といった俗物的価値観に縋り、死から目を逸らし、押し退けます。
僕たちが恐れているのは、死ではなく、死についてのイメージです。

恐怖を作っているのは、この「自分という感覚」、思考です。
僕と恐怖は同じものです。僕自身が恐怖です。

そして、恐怖があるとき、自由はありません。
不自由は、自己への固執と無理解を促し、恐怖を連鎖させ、
方法やパターンを求めて権威を崇拝し、鈍感な断片として死にます。


それで、僕たちは恐怖から自由になる事は出来るでしょうか。
この事はつまり、恐怖の作り手である僕たち自身、
自分を理解出来るかどうかということです。


どうして僕たちは無思慮で鈍感で、無理解のまま生きるでしょうか。
理解する為には、直接に見る、単純に聞く、自由に在る、という必要性を感じます。
それはどういう事でしょうか。
普段の僕たちはそうではありません。
恐怖しているので、そうしません。
物事を間接的に見て、複雑に聞いて、不自由で葛藤して悲しみを作ります。
何故でしょうか。どういう事でしょうか。

自己知が無いとき、恐怖が有るとき、差別、偏見、無視、怒りがあります。
普段の生活の中で、気付いた事はないでしょうか。
主義主張の壁、意見の楯、信念の目隠し、偏見のスクリーン、解釈の屈折率など、
伝達を困難にさせる要因があります。

伝達・コミュニケーションの難しさは、恐怖によって起こります。
僕やあなたが、自分の知識、肩書、結論、偏見、経験に執着する時、
言ったり聞いたりする言葉や、書いたり読んだりする文字は、歪曲されます。
そして正しい相互伝達は不可能になります。
ですので、正確な伝達には、僕とあなたの関係は無防備である必要があります。

僕が恐怖しているとき、正しい知覚、正しい理解、正しい伝達、はありません。
従って、誤った思考や歪な関係を作り出し、破壊的で悲しみを生みます。

人が敏感で、傷付きやすく、無防備な状態にある時だけ、
他人との相互伝達、率直な関係が可能になります。
そして、現在の社会において、環境的にも心理的にも、
正しい伝達はとても困難で、有ったとしても稀有で限定されたものです。
今度は、その稀有な関係性が重要性を帯び所有されるとき、
またそこに恐怖の種があります。


僕は恐怖なく、自由に生きる事ができるでしょうか。


 *


正しく考えること、について考えています。


観察、調査、実験、思考、全体的に気付くこと、
それは、ノートや会議室、研究室やアトリエの中だけではなく、
毎日の生活の中で行われます。

また、それは蓄積された知識や、養成された学力、
一握りの恵まれた人だけの占有物ではなく、誰もが行える事です。


思考と行為が同じでないなら、それは単なる上滑りの騒音です。
選択、葛藤、回避、理屈付けによって、僕たちは行動しません。
あるいは、間違った方向や方法で、安易な行動に逃避します。
それで、無理解であるとき、僕たちはどんな残酷な行動も平気で働いています。
どんな言い訳をしようと、矛盾し、葛藤し、悲しみを作ります。
そこに留まります。それを見ています。


一つの問題を検討するとき、その種々の枝葉を辿ると、集まるところの根幹があります。
僕たちが思考として意識上に取り上げ、検討する事が出来るのは、全体の一部に過ぎません。
ですので、知識や思考の信仰や崇拝、過剰な重要視は、物事を断片化させます。
物事を断片化し、部分として切り取り、分析的に破片を集積し、
専門的に取り扱い、個別的な問題として解決しようとすると、
人は分裂し、分断には矛盾や葛藤があり、関係は残酷な袋小路に入り込みます。
相関する全てに気付いている必要があります。
生きているもの、現在は流動的に関係する全体です。


 *


僕たちは、情報やイメージで考える事に慣れてしまっています。
その為、実際の体験、明確な知覚、直接の観察、単純な思考、緊急の行為を行いません。
どうして、身近な物事や目の前の事実よりも、
情報、イメージ、ラベル、教え、噂、伝聞、間接的で周辺のものが、
それほど重要性を帯びてしまったのでしょうか。

思考は、並列に接続された蓄音機のようなものです。
思考が出来る機能のひとつは、過去の再生と関連付けです。
過去とは、記憶、知識、経験、伝統、言葉、象徴、観念など、過ぎ去ったものです。
それで、僕たちの意識は、過ぎ去ったものの塊です。
僕たちの意識に、新しいものはあるでしょうか?
産まれてからずっと蓄積してきた経験や記憶、読書や伝聞で得た知識、
教育や伝統、自家製造の想像や空想、物の見方や考え方、文字や言葉の情報、
それらは継続されてきた古い物の組み合わせであり、新しいものはありませんが、
それ以外に、何かあるでしょうか?

感性、センス、直感、直観、啓示と呼ばれているものに対しても、注意してみると、
僕たち自身の経験や人間の歴史が訓練してきた条件反射、
観念の創作してきた誤謬であるかも知れません。


世界は常に現在で、新しく、動き、変わっています。
僕たちは意識は常に古いものでありながら、
新しく動き変化する現在の中に生きており、
感覚や思考が接触するところに、危機や挑戦を受けています。

過去は、新しいものを認知出来るでしょうか。
認知するには、予め知っている事が前提となります。
それで、僕たちが認知出来るのは、既に知っているものだけです。
知っているものの中に、新しいものはあるでしょうか?
神、真理、芸術、革命、観念、それらを時に「新しい」と呼びますが、
蓄えられた知識、修正された過去、微調整された方式は、古いものの継続です。
勿論、商業的な新品や芽生えた植物などの物理的な「新しい」は自然と認識されますが、
心や精神が見るものに、新しいものあるでしょうか。


記憶媒体の再生装置としての思考は、
食べ物を作る、家を建てる、健康を維持する等々、
生存の為に必要不可欠な正しい場所を持ちます。

しかし、思考が心理的に誤用される時、それは誤った結果を引き起こします。
人と人の諍いから破滅的な戦争まで、僕たちは思考を誤用します。

心は、人類から個人、身体や物理から象徴や抽象までを含めた、過去の塊です。
それで、教育や文化によって条件付けられた個人として、表出している差異はあれど、
人の心の構造は同じで、一時的なものです。
聖者も、学者も、犯罪者も、狂人も、一般人も、
それらは単なる名称ですが、観念を引き剥がせば、
皆人間であり、同じ心の構造で生きます。
しかし、心はそれを認めたくありません。
自分と他人を分割したい、違うものでありたい、自分が特別であり中心でありたい、
軽薄な流れるものでありたくない、永く続きたい、安心安全で居たい、
そういった野心と欲望から、思考によって思考者である「自分」を創作します。
そして、変わりたくない、揺れ動かさないで欲しいので、
信念や主義、孤立によって壁を築き、排他や差別、怒りによって防御します。

永続した実態として仮定されている思考者は、思考が仮設した容器です。
自我と呼ばれる思考者は、身体、教育、伝統、歴史、周囲の人間、
物理的あるいは心理的な環境の経過によって条件付けられています。
条件付けは観念のレコードのようなもので、過去を繰り返すことです。
それで、条件付けられた思考は、複数のレコードを加えたり入れ替えたりしている状況に似ています。
喧しく、同じことを、考えなしに騒ぎ立てます。

僕たちが過去の条件付けに固執するのは、
安心で居たい、継続したい、自分で考えたくない、変わりたくないからです。


既に述べたように、思考には実際、必要な場面と不必要な場面があります。
脳の機能を正しく能率的に働かせる為には、僕たちは自己を理解する必要があります。



脳は、思考、推論、憶測などと呼ばれる方式に従って、
先ず自分と対象を分割し、距離を測り、時間を掛けて、
何らかの対象、物質や感覚や観念を細かく分割し、名付け、蓄積し、操作する、
という一連の作業が学習と呼ばれています。

学習されるものは過去であり、それは知識や結論や経験ですが、つまり記憶から始まる思考は、
例外なく機械的で、限定されているということが観察されます。
何故なら、過去のものは、既に死んだ、動きの停止した断片であるからです。
そして、現在は、生きて動く全体ですので、
思考が思考に対して固執する限り、追い付く事が出来ません。
比較、計測、照合を通しては、現在は完全には理解されません。
思考は言葉です、言葉は記憶であり、記憶は過去の集積です。

それで、思考は、実在で、深淵でありうるでしょうか。
それとも、浅く、薄い、只の象徴でしょうか。

言葉は事実を指すものですが、それは事実とは別のものです。
今、僕はディスプレイと呼ばれるものを見詰めていますが、
「ディスプレイ」という名前と、目の前にあるコレは同じものではありません。
名前というものは、感覚が捉えた対象への反応として、
僕の記憶と照合して得られた象徴の言葉です。
そして、名前には、経験と相関して様々な付加情報が関連付けられています。
ある名前が心に浮かんだとき、瞬時に「あれは好きだ、嫌いだ」「これは高い、低い」
「それとどれは同じ、似ている、違っている」など評価や判断が加えられます。

例えば、道を歩いていて、木を見ます。
そして「あれは樫だ」「これは楡だ」云々と心が言うとき、僕は実物を見ているのではなく、
感覚から入った刺激に対して反射的な反応として記憶を呼び起こしているに過ぎません。
木を見ていません。情報に注意が向いています。
それで、反応が無いとき、名付けないとき、知らないとき、
対象が何か僕は本当に見出したいので、対象と共に留まり、注意し、観察し、考えます。

しかし、僕たちは沢山の、あるいは僅かな知識を持っており、
それらに無意識にまで首に浸かりきって依存しているので、
多くを知っているつもりになって、物事をほとんど真面目に見ません。
心は常に情報で一杯になっており、実際の事実への関心は注がれていません。
噂に、評判に、イメージに、情報に、ただ機械的に反応します。


観察と理解が招かれるには、精神が沈黙している必要があることが明らかではないでしょうか。
イメージ、噂、情報、記憶などで騒がしくなっている心は、正しい思考と観察が出来ません。
騒がしさは中心を持ち、それは自我ですが、対象よりも自我に重要性が置かれるとき、
愛は無く、無理解は助長され、相互伝達は困難になり、孤立と葛藤が生まれ、行動は誤ります。

かといって、沈黙を養成する事は馬鹿げています。
訓練や修行は言葉への隷従であり、その機械的な目標の達成は、
決まった答えに終わり、それは断片的な集中によって感覚を鈍感にさせるだけです。
薬物による沈黙の獲得は、化学的な効果はあるかも知れませんが、肉体の変質や破壊があり、
また薬物の効用が途切れたときには、経験への憧憬から、依存が始まります。

思考の限界を観察するとき、記憶や論理は正しい位置に置かれ、
有効な範囲内において能率的に使用される必要があることを見ます。
理解が沈黙の状態であるように感じます。
しかし、自分自身について無知であるとき、思考は誤用され、
心理的なものを創作し、未知のものを欲望し、暴力的に誤ります。

今、僕が理解するとき、何をすべきか、何をしないべきか、等は問われず、瞬間に行為があります。
問われるとき、心の騒がしさや選択があり、自己が中心にあり、
解決までの時間を作り出している為、僕は理解せず、行為していません。


 *


刺激への依存について。
僕たちの何かに出会うとき、刺激があり、そこに反応を起こします。
それが快い反応だと追い求め、不快な反応だと避けます。
刺激についての記憶が出来、経験として蓄積されます。
そして、言葉や象徴、神経や感覚といった、何かの弾みで経験から記憶が呼び出されれば、
「またあの素晴らしい感覚を得たい」又は「もう二度と味わいたくない」と思い、
刺激への依存や回避が始まり、経験は強化されます。
これは、安全な食べ物や心地良い居場所、危険な毒物や不安定な土地を探す為の、
生存するために必要な、自然な動物的本能の機能ですが、
この機能が精神に利用されるとき、人の無思慮や破滅があります。


貪欲そのものである僕たちは、
快楽の追求による感覚の満足、
社会的な成功による所有の拡大、
宗教的な修行による精神の制御、
経験の蓄積による自己の強化、
それらは良いものであり、または自由に繋がると考えています。
しかし、刺激の依存、安心の追求、思考の創作であるそれらは、
尚も思考の範囲内であり、快楽の、習慣の、情報の、記憶の、即ち過去の奴隷です。
それで、僕たちは、安心や安全を求めるあまり、自由にあるよりも、奴隷であることを選びます。
世界や社会や人と関わるよりも、選民として自閉的に孤立して死ぬことを選びます。


うんざりするような、残酷で暴力的な、無思慮で退廃的な、
精神の乱痴気騒ぎによる児戯めいたゴッコ遊びは、終わるのでしょうか。