奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です(笑)

傘を盗まれ、濡れて帰りました。

ただ悲しく、それらの反応を見、静かになり、思考を進ませ、観察します。

どうして人が、人の持ち物を盗むでしょうか。

家から持ってこなかった、傘を買うお金が勿体ない、
あるいは自分も傘を盗られたから、
何かしらの理由によって現在、必要なものを持っていないので、
そして入手する手段が限られているので、
人はものを盗み、持ち主である他の誰かが割を食います。

(自分が傘を盗ったら、盗られた人は濡れるだろう)
という想像、推測、自らの行動によって起こる事実を見るでしょうか。
あるいは、
自分が濡れない為なら知らない誰かが濡れようが構わない、知った事ではない、
と考えるでしょうか。


行為は関係から発生します。

何が敏感さを阻害しているでしょうか。
何が鈍感さを助長しているでしょうか。
一体何が、人の混乱を引き起こしているでしょうか。


所有とは何でしょう。
お金で購入した「わたしのもの」という感覚はなんでしょう。
何故盗むのかという問題は、何故ぼくたちは所有したがるだろう、という問題に繋がっています。

傘や衣類といった生活用品の所有については、特に何の問題もありません。
傷や寒さや雨を防ぐ為、健康の維持の為に必要だから、道具として使います。

しかし、僕たちは何故、心理的に所有するのでしょうか。
僕たちは、実際の自身の孤独、空虚さ、小ささ、貧しさから逃れたいので、所有します。
知識、観念、財産、友人や恋人、有象無象の所有したものによって自我を構成し、
対象を所有物とするとき利用があり、また、所有物そのものが自分となります。

僕たちは、所有するとき、いとも容易く依存します。
自己と所有物の同一化による安心の獲得があり、
それが奪われたとき、去るとき、取り乱し、悲しみます。
しかし、その悲しみは自己憐憫であり、決して対象への愛ではありません。
感傷、献身、涙もろさは、自己の感情を中心に起こります。
ですので、依存は利己的であり、愛ではありません。
そして、利用するとき、自己が重要であり、微塵も愛はありません。


僕が悲しかったのは、傘を盗られたことというより、
人が必要としている道具を盗む事によって起こる不都合を考えられない大人がいる、という事実でした。

そして、人が人から盗まざるをえない物的あるいは心的な貧困は、
現に僕たちが作り出している状況です。


傘だけの問題ではなく、無思慮はあらゆる面で行われています。


傘を盗んだその人が、躾の名目で子供を叱ったりします。
押し退け、踏み付け、奪った人が、貧しい誰かに施しを与えたりします。
誰かを嘲笑したその口で、誰かに愛を囁きます。
誰かを殴ったその手で、誰かを愛撫します。
誰かを誰かを蹴り落としたその足で、重要だという何かを運びます。
誰かを罵倒したその言葉で、誰かを賛美します。
誰かに悪意を向けたその精神で、誰かに善意を注ぎます。
醜いと目を背けた同じ心で、他の美しい何かに陶酔します。
何かを守るその正義で、他の何かを殺します。
何かに入れ込む愛着によって、他のものを閉め出します。
特定の動物は労り保護し愛玩するのに、他の動物や人間には攻撃的で無慈悲です。
他者については達者に批判するのに、自らについては専ら偶像化します。
わたしはコレを好きだと言い、あなたはアレを好きだと言い、
わたしたちは嗜好によって互いに関係を断って孤立し、それから平然と奪い殺し合います。
知者や賢者と言われる人の話は熱心に聞くのに、無名の人や愚者と言われる人は無視します。
富める人や権力のあると言われている人には従順で献身的なのに、
貧しい人や地位の低いとされる人には無慈悲で無関心です。
映画やアニメなど創作物には繊細に感動するのに、関心の無い現実については残酷なほど鈍感です。
選ばれた少数は矢鱈と称賛するのに、選ばれなかった多数はどうでもいいのです。
科学や哲学や芸術、絵画や文学や音楽については造形が深いのに、
わたし自身やあなた自身については、ほとんど無知です。

どうしてこれほど野心的で、断片的で、矛盾していて、
僕たちの生は悲惨に葛藤しているのでしょうか。



昔、どこかの子供が発した、
「どうして人を殺してはいけないの」という質問が話題になった事があります。

この質問に大して、教師や親、学者や専門家は、
哲学的に、法律的に、社会学的に、道義的に、科学的に、解答を与えました。
あるいは、心理的に解釈し、子供について分析したりしました。
また、馬鹿だとか異常だとか定型句で跳ね除けたり、真剣でなかったりします。

しかし、解答は思考や知識の産物です。思考は言葉、言葉は過去の反応です。
言葉は事実とは違うものです。過去は現在に完全には対応出来ません。
分析は全体である事実の一部分をいくつか集積した断片の塊です。
断片をいくら集めても全体にはなりません。
事実でないものや断片は、現実に妥当性が有りません。
ですので、それらは根本的な解決には繋がりません。


答えは、問題それ自体の中にあります。
どうして、その質問がなされたのか、を考える必要があります。

実際に僕たち大人は、矛盾し、葛藤し、苦悩しています。
「殺してはいけない」と言いながら、言葉や武器で殺します。
「盗んではいけない」と言いながら、他人から有形無形を奪います。
「妬んではいけない」と言いながら、嫉妬を愛だと嘯き、憎悪を正当化します。
「嘘をついてはいけない」と言いながら、虚偽や誤魔化しで満ちています。
「みんなの為に」と言いながら、いつも自分の為に動きます。

そういった暴力的で混乱している僕たち大人をみて、
「どうして口で言う事と行いが違うの」という質問は、極めて妥当であるように思います。

これらの矛盾を、僕は良いやら悪いやら言うとき、物事を見ていません。
事実を単純に見るとき、良いや悪いという判断はありません。
「葛藤こそが生だ」「人間だから仕方がない」といった正当化は、
言葉だけの解答、思考の停止、観察の終わりです。
あるいは、天邪鬼に、それらの反対を行ったり、意固地に攻撃したり、
「今までは悪かった。だけどこれから改善しよう」と教義や道徳を形成して従うなどは、
明らかに虚偽、反応に対する反応、理想への逃避です。
それは学校や宗教や刑務所、家庭や人々の間で行われてきました、
その結果が現在です。何か変わっているでしょうか。
抑圧や強制や規則による表面上の変化は、単なる修正の連続に過ぎません。
支配は暴力を内側に向け、現に更なる混乱を生むだけです。

僕たちは血を拭うのに興奮していて、根本的な傷の処置を無視しています。

肯定も否定も選択も、いま在るものに対する無知から発せられます。
自身に無知なとき、どんな方法や言動を行ろうと、
それは混乱から出発している為、正しい基礎を持たないことを見ます。
混乱が選ぶ選択肢は、尚も混乱しています。
混乱した思考は、混乱しか選ばず、結果的に暴力しか生みません。

矛盾し、葛藤し、暴力に満ちているぼくたちの、
このうんざりする繰り返しは、果たして終わるでしょうか。

宗教や伝統、学問や科学は、混乱した現在に対して、教条や解答を与えてきました。
「それは終わらない。人間とはそういうものだ」と教えられてきました。
大人が、先人が、聖人が、賢人が、そう言ってきたから、そうなのであろうと、
僕たちは自分では何も深く考えずに従ってきました。
その結果が現在です。今も尚、僕たちは混乱しています。

実際はどうなのでしょうか。
僕は何も知りません、だから自分で見出したいです。
専門的に断片化された部分の集合ではなく、
流動的に一体化している現在の全体を見出したい。


ある人は、人間も動物であり弱肉強食だ、自己中心が当然だ、と言い。
ある人は、本音と建前を使い分けろ、社会とはそういうものだ、と言います。
ある人は、社会の革命を謳ったり、反抗した文化を作ろうとしたりします。
ある人は、努力や我慢や忍耐をしつつ遊びや気晴らしで過ごせ、と言います。

どうして正当化するでしょうか。
どうして抵抗するでしょうか。
どうして真剣ではないのでしょうか。
僕はこの質問を、何の他意も無しに、言葉のままの意味でします。

人は、どうにかして理由を付け、問題の凝視、根本的解決を避けます。

どうして僕やあなたは、人を殺すのでしょうか。
僕は殺したくありません、あなたはどうでしょうか。
これは現在の危機です。
ですので、真剣にある緊急性と必要性を見ます。



 *



僕は友達が居ません。
それは実際の事実で、何が問題でしょうか。
寂しさ、頼りなさ、社会的な評価、それは問題でしょうか。

誰かが「友達を持つべきだ」と言います、
あるいは誰かは「友達なんて要らない」と言います、
僕はそれらに、気分や考え方によって、賛成したり、反対したりします。
立場を選びます。結論を固めます。理論を立てます。意見を持ちます。
自ら育成したか誰かから与えられた立場、結論、理論、意見がある時、
即ち『わたしの思考』を持つとき、
それが投影された「持つべき」乃至「持たざるべき」という理想を自家製造し、
「友達が居ない」という単純な事実との間に葛藤が生まれ、
それは問題になり、矛盾や苦痛や暴力を孕みます。
しかし依然、実際の事実としては[友達が居ない]というだけです。

では、「友達がいない」とは一体どういう事でしょうか。
それが良い悪いという判断、理由付けは尚も古い思考の範疇です。
実際の事実の観察に留まります。

理解するとき、僕は友達が居ない事を悩んだり、
無理に友達を作ろうと努力したり、エネルギーの浪費は行いません。

その時、僕はただ静かにひとりで居るだけです。
孤独という名付けを行わない、ただひとりで在る状態です。