もっと評価されるべき才能の無駄遣いという定評のある作者は病気(笑)


中心が無く気付く、という感じがあります。
何にも集中していない、動きの中に居るときの。




成功した人間に接する時、その情報や噂に触れる時、
瞬間的に生じる、この感情の動きは何でしょうか。


テレビで「熊谷守一」さんという方の絵を見ました。
猫が寝ている、雨が降っている、花が立っている、
そういう素朴な情景が、のっぺりとした暖かい色と簡素な形で描かれていました。

なんとなく、いいなあ、と思って見ていたのですが、
生涯の紹介を見るうちに「商人の息子、美術学校出」という情報に触れ、
僕の心は抵抗を感じました。
僕は心の中で「結局、取り沙汰されるのは恵まれた人だけだ」と言いました。
どうしてでしょうか。

あるいは、詩や文学で人気がある人や、創作で有名になっている人や、
音楽が世間に受け入れられてお金を稼いでいる人など、
噂に触れた時にも、僕は何とも言えない悲しい気持ちになります。

それは、僕が「ひとかどの人間」になろうとする野心、欲望を持っている事を反映します。
そして、貧乏で才能の無い僕には、その欲望は実現されません。

どうして、評価や批判に拘り、縋ったりするのでしょうか。
一部分に集中している、その神経症的な精神は、明らかに混乱しています。
評価や判断による自己の強化と拡大が目的でしょうか。

ある人は能力があります、そして僕は能力がありません。
多くの人がある人を評価し、そして僕は相手にされません。
この分断はどうして起こるでしょうか。
技術、コネクション、時流、人の心、様々な面の要因があるという事実を見ます。

評価や評判に対して、どうして傷付くでしょうか。
それは僕が特定の価値観に依存している事を示します。
権威があり、模倣があり、評価があり、価値観があり、
それらに振り回される混乱した愚かな精神の有り様を見ます。
それが僕の思考、『わたし』という感覚です。

やりたい仕事に就けなかった現状、僕の精神は未だそれに執着しています。
どこか苦痛に感じ、抑制しているところがあるかも知れません。


「そうなりたい」という理想と「そうなれない」という事実の相違が、
不安や葛藤や矛盾を生み、思考の中でエネルギーを消耗し、
それ故、次第に無気力になり、結果何もする気が置きません。


しかし、僕はそうして居たくはありません。内的に不満があります。
そこで、生きていく上で、僕はそれを完全に理解する必要があります。
生きている全ては関係している為、それから孤立したり、
嫌なものだけを避けたり、攻撃したり、諦めたり、無視する事は愚かです。
理解の無い状態でのあらゆる動きは、無思慮であり、従って逃避や暴力の類です。
完全に理解して終わらせるか、追い払いながら延々と戦い続けるか、いずれかです。


では、どうして僕は傷付き、苦しむでしょうか?
それは、僕が彼らと違い、自分は貧乏で、絵の才能も無い、
誰にも知られず、薄給で食い繋ぐ、吹けば飛ぶような見窄らしい存在、
そういった”いまあるそのまま”の自分に対して失望しており、
それを反転させた『あるべき姿』という理想的なイメージを抱き、
イメージを他者に投影し、自分と他人の差に、劣等感を抱く訳です。

では、「そうなりたい」や「そうあるべきではない」といったイメージは、
果たして事実に対しての妥当性があるでしょうか。

理想があるとき、葛藤があります。
希望を抱くとき、失望があります。
優越を目指すとき、劣等があります。
成功を望むとき、挫折があります。
所有を守るとき、喪失があります。
僕は思考の二重性を見守っています。

それら表裏一体の二重性は思考の創作であり、実際の事実とは乖離したものです。
そして、僕がイメージに夢中になっている時、僕は事実を何一つ見ていません。
そこに居る人間も、そこにある絵や音も、全体の動きも、あらゆる関係も、尽くが無視され、
孤立化していく思考の働きがあることを、僕は観察します。


実際の事実として、僕には財産も才能もありません。
葛藤も失望も劣等も挫折も喪失もありません。
事実に留まります。それで終わりです。


次に、思考を観察します。

どうして「成功したい」と願うでしょうか。
どうして、何者かになりたいのでしょうか。
どうして、陳腐で、空虚で、見窄らしくありたくない、
そうあってはならない、と考えるのでしょうか。

実際の事実としての僕は、むなしく、なにも持ちません。
どうしてそう在る事がいけないのでしょうか、何がおかしいでしょうか。

そう在ってはいけない、と教えられてきたからでしょうか。
こぞって周囲が言い合うからでしょうか。
社会が「そうあってはならない」と教育するからでしょうか。
僕自身が虚しい感覚から逃れたいからでしょうか。

虚しい感覚があって、どうしていけないでしょうか。
不快があるとき、どうしてそれを理解せず、避けようとするでしょうか。


ある人は能力が有ります、そして僕は能力が有りません。
それぞれに起こる様々な関係があります。
多くの人がある人を評価し、そして僕は相手にされません。
ある人は好きなように生きる事ができ、僕はそれが出来ません。

その現状に対して、正しい思考、正しい行為はなんでしょうか。

どうして比較、測定、計量するでしょうか。
それは、何らかの基準、目指すべき理想、固定した結論を持つからです。

では、基準や理想や結論とはなんでしょうか。
その判断や選択は『わたし』が行います。
『わたし』にはわたしの基準があり、『あなた』にはあなたの基準がある、
と言い、言われ、現にそうしています。

では、基準の中心となる『わたし』という感覚は何でしょうか。
それは蓄積された記憶、特定の国や環境で与えられた伝統や教育、
個人的な経験などによって、思考が自ら作り、養成してきた観念です。
記憶の総合である思考が、思考者である『わたし』という意識を形作りました、
そして思考者『わたし』は、自らが作った思考を自らから分離し、
分離された思考は観念や概念として、それを基準や結論としています。
思考は思考者です。
思考と思考者の動きを見ます。
基準や結論の根元を見ます。
事実だけが残ります。
そこから観察する事が出来るでしょうか。

油断があれば思考が湧き、今までの一連の反応が繰り返され、エネルギーの浪費があります。
僕たちは、それら『古い思考』を捨て去り、
『正しい思考』によって単純に取り組むことができるでしょうか。

実際の事実として、いま在る状態だけが、全ての基盤です。

事実と共に残るとき、僕は問題がありません。
静かさがありま。




ピカソの再来」という話に触れ、考えていました。

絵画の才能の有る子供が現れると、周囲やマスコミが騒ぎ立てます。
そして、ピカソに限らず、モネやダ・ヴィンチゴッホなど、
象徴的な芸術家のイメージを被せたり、比較して喧伝します。

ある人は称賛して子供の未来を期待したり、祀り上げたりします。
ある人は嫉妬して子供を批判的に扱き下ろしたり、失敗を望んだりします。
ある人は、子供とピカソの相似や相違について議論したりします。

僕は何の意見も持たず、黙って見ています。疑問を持ちます。

どうして、人には、期待や嫉妬があるのでしょうか。
肯定にしても否定にしても、僕の精神に何かしらの意図がある時、
観察は濁り、思考は狂い、知覚は鈍り、心は錆びます。
混乱した精神は複雑な回路となり、
不必要な抵抗を通ってきたエネルギーは浪費され、
表出されるそれは混乱し疲れ切っています。
表現の型は違えど、葛藤や嫉妬、怒りや依存は、こうした経緯があるように感じます。

どうして、ピカソが、あるいは他の誰かが、そんなに重要なのでしょうか。
誰かは「価値がある」と言います、誰かは「価値なんて無い」と言います。僕は知りません。
誰かは、卓越した写実主義を経てこそのキュビスムやデフォルメに意味があると言います、
誰かは、剽窃と演出の才に長けていただけだと言います、僕は知りません。
何が価値か、何が美か、誰か本当に知っているのでしょうか。僕は知りません。
それは本に書かれているでしょうか、芸術家や専門家や偉人がそう言うからでしょうか、
教育された伝統や知識か、あるいは自分で培ってきた感性が決めるでしょうか、
僕たちはそれを受け入れたり、反発したり、選んだりしてきました、
それらは実際はどうなのかな、と僕は考えます。
僕は本当に知らないので、探求し、理解したいです。
探求する為には、結果を持たず、事実と共に現実へ留まる必要があります。

どうして、それは再来しなければならないのでしょうか。
何故、描いている人が、それほど重要なのでしょうか。
作品が、話題が、金銭が、権威が、何が要点でしょうか。
再来するか、しないかは、それほど重要なのでしょうか。
僕たちが対象に接する時、いつも過去のものとの比較点や相似点を探し集め、
それで対象を理解したつもりになっています。
しかし、比べることや似ていることの情報で心を満たす事は、
果たして意味があるのでしょうか。
そこに共感はあるでしょうか、共感が無ければそれは理解でしょうか。

どうして、その絵を、子供を、直接に見ないでしょうか。
どうして、一つの断片が重要になる時、他は軽視されるでしょうか。

対象を知る為には「周囲の様々な知識や情報を集めれば集めるほど理解出来る」と僕たちは考え、
断片を掻き集めて、それから組み立てる事で、理解しているつもりになります。
しかし、断片をいくら集めても、全体としての事実は捉えられないのではないでしょうか。

期待や嫉妬、賞賛や批判を行う時、
僕たちは子供を、そして絵を、全く見ていません。
従って、子供を、絵を、潰します。


問題が見えた時、もう僕はそれをしていません。
正しい思考で事実を探索する、
理解をするという過程は、そういう事ではないかと思います。




それで、僕は、正しい思考、葛藤や矛盾の無い自由、全体の生に関心があるのかも知れません。
生きている、流れ動いている、正しい位置の、秩序について。美なんかもその内部にあるような。
それは誰も教えてくれません。自分で考える必要があります。


僕には絵画や音楽や文学の才能はありません。
ですので、表現のそれに拘ったり溺れたりする必要は有りません。

時には、絵を描き、楽器を鳴らすかも知れません、しないかも知れません。
しかし、それは問題でありません。それを行う時、正しく行うに任せます。
その為には虚偽や混乱を見据える必要があります。
主要な関心を見出す時、瑣末は問題にはなりません。
瑣末、枝葉、一部分が選択される精神の有り様は、注意散漫を意味します。

何か一つを選ぶということは、特殊化するという事です。
好きな仕事に拘るという事は、好きではない仕事に抵抗するのと同じ様に、逃避です。
プロや専門家、その方向を勉強したという経験・自意識を持ってしまったが為に、
自閉的で独善的で狭量になってしまった人たちを、これまで見てきました。
それは、美だけを選び、醜を見捨ててしまう事です。
好きなものを選び、嫌いなものは無視する事です。
個を選び、他を締め出す事です。
それらは注意に欠け、無思慮で暴力的ですので、矛盾や葛藤を生みます。
彼ら彼女らは、芳醇な詩、綺麗な絵、華麗な音楽を作るかも知れませんが、
それをする人間が平凡で無思慮で暴力的ならば、果たして何が創造的でしょうか。
一部分に執着する神経症的な人間は、破壊的であり、尚も凡庸です。

問題を理解するとき、もう僕はそれをしないでしょう。
危険を見たとき、咄嗟に自然と対応するようにします。

ある人が美を知っていると言います、僕は知りません。
誰や彼が、偉大な芸術家だ、と、言いますが、
何かアレやソレが、偉大な作品だ、と、言われていますが、僕は知りません。
鵜呑みに順応するのでなく、従い慣れるのでなく、
かといって、猜疑しているのでも、反抗しているのでもなくて、
僕は単純に知りたい。見出したい。理解したい。

ですので、学位や知識、技術や才能があるかどうかは問題ではありません。
自己を知る基礎無しに行うとき、それらは過去への隷従に過ぎないからです。

僕は平凡なひとりの人間として、美を見出したい。
全体を理解したいので、自己を理解します。
事実と関係と共に留まります。観察と思考を止め処無くします。
それで知っていることは終わり。知らないことが始まるに任せます。