この人を見よ(笑)

緑茶ばつかり飲むでゐ升。



天罰!エンジェルラビィ☆〜ですver.〜/Under17

http://www.youtube.com/watch?v=tjK-Kidikho




僕は、どうして装うでしょうか。
中身が無いので、あるいは内面を誇示する為に外面から装います。
持っていないものの獲得によって、内面を補完しようとします。
どうしてそうしなければいけないでしょうか。


 *


ずっと不思議に思っていました。
例えば、美術館か博物館に行ったとして、絵画か彫刻について、
ある人は「これは美しい」と言うのに、別の人は「いやそれは醜い」と言います。
どうしてでしょう。

美術史では、ダ・ヴィンチミケランジェロゴッホピカソ等々、
名の知られた芸術家やそれらの潮流傍流が”美しいもの”だと習います。
同時に、素人や子供など知識や技術の無い人の作るものは、稚拙で醜いとも習います。
学校や師匠の教えが、市場の評価が、共通の嗜好を持つ仲間が、価値観を醸成します。
心理や体調、境遇や思想、価格や文化によっても、左右されます。
或いは、それらの反動として、全く逆の説を唱える人々もいます。
また、マスメディアや理論書、広告デザインや市場に流通するイラスト、漫画や雑誌、
伝統工芸や建築物、自然物や人工物などから、それらを見出す人もいます。
著名人や知識人、作り手や批評家が、各々の主義主張理論こだわりを、
ぶつけ合い、寄り集まり、現在まで様々な流行がありました。
そして個々人も各々の趣味嗜好や教養思想に基づいて、
あれ選んだり、これを選ばなかったりと、感性を養成しています。

まず、特定の美醜や優劣や上手下手の基準があり、対立的な概念を基礎に置き、
「いま在る下手なここ」から「あるべき上手いあそこ」へ向かって、
試験・訓練・勉強・修行・努力する事などを通じて、
才能や腕が磨かれ、美的感覚やセンスなどが養われている、と考えられています。
師弟関係における修行や、学校での授業講義などがそれです。

基準というものには、人であれ観念であれ、何かしらの権威があるのではないでしょうか。
そして権威を目標として、その模倣によって、力が追求されていき、
権威との自己同一化が段階的に実現されていく事で、僕は達成されたと感じます。
権威があるとき、新しいものはあるのでしょうか。それは本当に美なのでしょうか。

僕はその場その時の考え方や気分によって、いろいろなものを選んできました。
しかし、「本当の意味で、美しい、醜い、とは何だろう」と、いま考えます。
無数に分裂し対立し、互いに批判したり無視したりしているこの状況は、何なのだろう、と考えます。
皆が皆、各々の言い方で「私は美を知っている」と言います。
どれも確からしい理論や経験に基づいており、卓越した才能と熟練した技術で表現されます。
僕はそれに、感応したりしなかったりします。
しかし、美が本当なら、どうしてこうも対立や葛藤や矛盾や暴力が湧くのだろう、
どうして固定した基準があり、選ぶ必要があるのだろう、と思います。

僕は、美しさや醜さを知りません。
養成された知識や思考の自己欺瞞に気付き、その根源である過去の動きを見て、
もはや意味の無くなったものとしてそれを心理から捨てる時、僕は基準を持っていません。

判断や評価、比較や計測が、無数の過去から醸成された条件付けによる反応である事を、見ています。
誰かに与えられた知識の条件付けを失った時、美や醜はあるのでしょうか。

僕は言葉の持つ観念について考えているでしょうか、
それとも言葉が指す対象物について考えているでしょうか。


「人それぞれ、だから自分は自分ものを選ぶ」という結論にも僕は不満です。
それは単に自己閉鎖の安易な結論であり、排他的で孤立した象牙の塔であり、
いずれは権威や独善の核となってしまうでしょう。

いかなる”結論”も過去のものであり、現在を見て考え理解することに蓋をしてしまうからです。
そして、あれやこれを”選択”する事は、混乱している状態であるという事も見ています。

選択するという事は、それを事前に「既に知っている」という事です。
「知っている事」は過去で、それは知識や情報や経験です。
過去の全ては、僕個人が受けたり跳ね除けたりしてきた無数の条件付けです。

そこで、僕は何か知っているでしょうか。実際の事実として。

何らかの基準によって一方を選ぶと、他方は選ばれません。
そこには暴力、歪み、傾き、葛藤、不自由があります。
結論も、選択も、真理も、誰がそれを知っているのでしょうか。
師匠や芸術家や知識人が、それを知っていると言います。本当でしょうか。

再び、僕は何も知りません。
結論を下す時、選択する時、僕は「知って」います。
そして、知っている時、観察と探求は終わり、
現在は過去に吸収され、本当は虚偽に取って変わり、
僕には混乱と虚無しか残りません。

僕は美醜について、否定的に辿っています。
肯定的に辿る事は、結局は権威の選択になってしまうからです。
同意も反対も無しに、辿られる必要があります。


どうして美術館や博物館に行くのでしょうか。
その中に「美が展示されている」という名目で、それらはあります。
建物の外には、自然や動物、人間や関係、広い世界があるのに、
どうして壁の中の「選ばれたもの」を見なければならないのでしょうか。
どうして、醜いものは見たくないでしょうか。
美しいものも醜いものもある現実の中で、どうして僕は選ぶのでしょうか。
その時の僕の心の動きとはなんでしょうか。

どうして僕は求めるのかというと、それを持っていないからではないでしょうか。
僕は歌をもっていないので、CDを買ったりコンサートに出掛けます。
僕は貧乏なので、お金を欲しがります。
僕には愛がないので、他人からそれを欲しがります。
僕は自由や幸福がないので、外側やこの世の意外の場所へ求めます。
僕は所有しているものは求めません、物質的にも心理的にも。

ここからあそこへ、事実から理想の状態への願望があるとき、矛盾や葛藤が発生します。
問題は”ここ”です。”あそこ”へ行くことは問題の回避、延期です。
また、「もっていない」という事実それ自体は問題ではなく、
事実への接近の仕方、関係の扱い方が問題を生んでいるのではないかと思います。


切望と所有について。
僕はお金を、地位を、才能を、力を、友達を、良い衣服を、持っていません。
それで、獲得の為に奮闘します。
これが、メディアが扇情し、社会が奨励している、努力を主軸とした野心的な生き方です。
すぐに良い悪いを言わずに、実際に留まり、慎重に見ましょう。
僕はそれら一つ一つの要素の意味を、「どうして欲するのか」という疑問を、
欲望自体の動きを、所持する時や所持しない時に起こる事を、
じっくり見た事がありません、あまりしっかり考えません。
「足りない」と言われ、教われば、そのように感じ、求めます。
あるいは反動的に、仏教や他の何かの教義のように、欲望を制御しようとします。
これらを正当化したり反省したりします。
あまりに騒がしく観念を探し、あまりに簡単に結論を見付けます。

どうして僕はうたわないでしょうか。
下手で恥ずかしいから、近隣の迷惑になるから、様々な歪みがありますが、
僕が本当にうたいたければ、即座に適切なやり方が見出され、それは行われます。
そこには問題も矛盾もありません。
しかし、そのうたについての評判や測量に関心が向く時、葛藤がうまれ、苦しみます。

どうして僕は貧乏だと感じるでしょうか。
実際の衣食住が足りないのか、社会の宣伝する水準に届かないのか、欲しい物が買えないのか。
何と比べて貧乏なのか、貧乏だと何が問題なのか、僕の考えるお金という観念は何か。
雨風を凌ぐ場所、身を包む服、細胞を維持する飲食は、基本的な生存に必要です。
それ以上の何が足りない時に、僕は貧乏だと言うでしょうか。
ある水準の収入が無いからでしょうか。数年後の生活を保証する貯蓄が無いからでしょうか。

どうして僕には愛がないでしょうか。
恋人が欲しい、何故それは居なければいけないと考えるでしょうか、
宣伝されているからでしょうか、本能であると教わりますた、それは本当でしょうか、
存在を承認されたい、どうして誰かに承認されなければいけないでしょうか、
性的に解放されたい、どうして性が問題になってしまうでしょうか、

僕は解決したい、結果が欲しい、安心したい、
そういう時、僕は何も知りたくないだという事実を見ます。
それと共に在ることは辛く、苦しく、空しいので、僕は逃避します。
逃避する為に、事実から観念を引き出し、思考で格闘します。

思考と自分は別々でしょうか。
まず、自分がいる、と認識し、
自分が貪欲の状態であり、
それは無数の矛盾や葛藤を生む為、大変苦しいので、
貪欲ではない状態になろう、と努めます。
この一連の「いる」から「なろう」という作業工程それ自体が、
(事実からの逃避の為に)思考が作った距離ではないでしょうか。
「ここ」から「あそこ」への時間差を作る事で、
僕は事実に関する観念を作り、それを分割してしまいました。

思考は思考者です。
貪欲は僕です。
恐怖は僕です。
嫉妬は僕です。
観念が独立して別個にあるのではなく、
観念もその観念を創作想起しているのも、事実には一つの実体ではないでしょうか。
何故なら、それは離れて在る事がないからです。
書物や誰かの言葉で等でそれに触れる事はありますが。
自分がそれ自体である事を見るとき、どうなるでしょうか、
思考と思考者は一体であり、積極的な意味付けや解釈は虚しくなります。
僕は虚しさと共に留まります。

美は僕です。
醜は僕です。
言葉は、それを発する人自身である事を見るとき、終わりがある事を見ます。

僕の言葉は、説明や記述の道具として、そのレベルに留まっているでしょうか。
それとも、希望や解釈、断片的な意味付けに終始しているでしょうか。


僕は何が正しいのか知りません。

夕焼けの照る深い緑の木や、浅縹色の雪を割る鮮やかな椿に、
戯れる動物の稚児や、物がただ在ることの色や形に、、
僕はただ見入った事があります。
何の知識や経験の準備も無く、思考の名付けも感情の依存も無く、
ただ全身で見入る状態です。
僕はそれを「素晴らしい」とも「美しい」とも呼びたくありません。

そして、それらが過ぎてしまって、消えてしまった後に、
再度出会いたくて、何かで表現したくて、画材や音に定着させていきます。
しかしまた、この経験の記述内容を再び求める事も、僕を誤らせるという事に気付きます。

求めないところにそれは吹いてくるであろう事実があります。
何故なら、僕が求める時、すでに古いものとして知っていて、選択しているからで、
積極的に得られたものは、僕の切望が生んだ虚偽に過ぎないからです。


 *


彼は、知識と情報で一杯でした。
自信と自負、独断と高圧とがありました。
解釈と意見で忙しく、野心的で疑い深く、静かではありませんでした。

彼女は、感情を熱くしていました。
常識と道徳があり、それ故に不正を糾弾しました。
騒がしく経験が対流しており、静かに見ている事はしませんでした。

固定された観点から肯定的に語る事は、既に結論を持っており、同じ事を繰り返します。
結論から話されるもの、考えられるものは、混乱であり、古いものなので、現在に正しく対応しません。
従って、強制的な解決はあっても、根本的な理解が無ければ、問題は延期されていくだけです。

どうして意見を言いますか、
どうして意見を言わせますか、
同意や反対、対立は重要ではありません。
周辺情報の蒐集や、分割による判断も、混乱の深刻さを招きます。

何故、それを言うのか、行うのかを、見ようとは思いませんか。
僕は、うんざりするほど続いてきたそれを、完全に終わらせたい。
だから、意見も結論は持ちません、それは終わりません。
問題自体の消滅、自らの理解を、僕は見出したい。
どうして、それをしますか。


僕たちは、自分が早急にする必要があること、考える必要があることを差し置いて、
残酷な噂や観念的な議論、他人の色事や給料袋など、
くだらない些末事に熱を上げる事がままあります。
どうして、それを騒ぎますか。
非難でも嫌味でもなく、単純な意味で問うています。
それを止めずに、続けて下さい。
自分でそれを見出して下さい。

どうして僕は、他人の物事が、取止めの無い情報が、そんなに重要になってしまったのでしょうか。