パパ!全共闘!ママ!プロ市民!狭間に生まれしアタシはネトウヨ!玉砕夢見てネトゲにラナウェイ(笑)


現代政治についての講義を受けました。
政治史とその周辺。



ゴスロリちゃん綱渡りから落下す/特撮
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=Hu0pYUIe9x0




「教師は自分だけで、生徒は自分だけです」と表しましたが、
これは単独性という話に掛かっています。孤立、孤独の意味ではなく。

従って、ひとりの状態である時、ありとあらゆるものから学びます。
言い換えれば、あらゆるものが教育となり、教師も生徒も居ない状態です。
どちらも同じことです。

ひとりで在ることは、壁も殻も無く、剥き出しで、敏感に傷付きやすい状態です。
僕は恐怖して、安心が欲しいので、言葉の壁を作り、観念の殻に篭ります。
閉ざされたものが、どうして自由になるでしょうか。
自由でないものが、全体を認識出来るでしょうか。
強さで固め、高さで覆ったもの、力の鈍感さが、どうして敏感に気付くことができるでしょうか。
開かれていない窓から、どうして外の世界を見ることが出来るでしょうか。

自己は部屋で、環境は外です。
あるがままにあり、見て、聞くには、部屋を出る必要があります。
恐怖や不安、安心や永続への願望が、精神を過去の部屋へと引き篭らせます。
刺激や習慣、経験や過去が、僕を無思慮に鈍化させ、
思考や感情が姑息に巧妙に、知識や虚偽によって部屋を”装飾的な牢獄”にしていきます。
努力や獲得の自己拡大によって、部屋は広げられていきますが、
いずれにしても壁があり、内部には「わたしのもの」の所有と支配があり、
外部の世界との断絶があり、より大きく、より複雑に、満足を与えます。

如何に高価で華やかに飾りたてても、その部屋は孤立しています。
結果としてそれは独善的、排他的、自閉的、暴力的、平凡で退屈で陳腐です。

僕は、部屋を出るでしょうか。なぜ、篭っているでしょうか。
ひとりで、新しくある事ができるでしょうか。
全体についていき、気付いていることはできるでしょうか。


何であれ、理解する為には、初めに自由で在る必要があります。
何故なら、不自由で在る状態は、理解を放棄しているからです。
僕が断片に生き、選んだものしか見ないなら、全体は見失われ、自由は損なわれています。
自由で在る為には、「わたしのもの」からの解放がなければいけません。
「わたし」という意識や無意識が、恐怖、依存、葛藤、対立の根源ではないでしょうか。
それらを、見ています。

わたしのもの、という実感は、僕に満足を与えます。
そして、所有という観念が与える快楽や苦痛を見ます。

所有物への執着は、不安や恐怖からの逃避です。
物であれ、人であれ、対象への執着(愛着)し、
それを求め、去ることを悲しみ、手中に無いことを苦しむなら、それは愛でしょうか。
一般的に、所有や嫉妬、連帯や感傷、期待や求め合いが愛と呼ばれています。
しかし、それらは自己を忘れる為に、安心安全の為に利用しているのであり、
そのときに大切なのは対象ではなく自己です。
この残酷さを見て、僕はどうするでしょうか。
「これこれだから仕方がない」
「悪い事をしてしまったもう止めよう」などと言う事はよします。
どんな正当化も反省も欺瞞的な逃避です。
今あるがままの、身勝手で貪欲な状態に留まります。
所有と利用による対象への拷問、その凄惨さを直接に見て理解する必要があります。
動かないなら、無理解なら、愛という名を被せ、対象を搾取し続けます。


 *


ひとりであることができるでしょうか。
混乱した人々が「我々が正しい、我々の支持する彼が正義だ!
違う事を言う奴は馬鹿だ!〇〇の手先だ!黙らせろ!殺せ!」と騒いでいても。
たとえばいろいろな持ち物を失っても、そこから静かに距離を置き、
ひとりであることができるでしょうか。

「国を愛せ、敵を討て、そうしない奴は非国民だ」
「この思想哲学こそ真理である。沿わぬ者は愚者である」
「神を信じろ、信者以外は人間ではない」
「これが正義だ、歴史だ、伝統だ、常識だ、科学だ、当然だ」
様々に形を変えながら、断片の神格化と崇拝、信仰と従属によって、
それは教育や政治となって繰り返されてきました。
果たして、それは、成功したでしょうか。
正しく機能しているでしょうか。

ある主義主張があり、それに対する反動があり、
修正や改革の行ったり来たりがあったり。

古代ギリシアプラトン哲人政治から、王政や軍政、
君主や神権、全体主義や独裁、社会主義共産主義
そして近代のデモクラシーから現代へと細分化し重層化する思想哲学主義主張、
繰り返されてきた政治の歴史を習いました。
それで、成功した事があったのでしょうか。

ある人はカトリックです。ある人は集産主義者です。
日本人です。アメリカ人です。わたしは何々です。
どうして所属と、それによる分割があるでしょうか。
所属する事による観念への自己同一化は、集団の力と自意識とを強化し、
自他を条件付けると共に、支配しようとします。
自分に沿わない相手を反対側に置き、対立します。
ですので、右でも左でも、僕には同じものに見えます。


これら全体を分割しようとする荒い流れの中で、
ただひとり静かに踏み止まる事ができるでしょうか。


 *


僕はあまり怒らないのですが、(大抵悲しくなります)
どうして人は怒るでしょうか。
僕が怒るとき、何に対して怒るでしょうか。
自分の信じる道徳が犯されたとき、自分の知る正しさを基準として誰かが間違っているとき、
所有物が壊されたり奪われたりしたとき、侮辱されたり馬鹿にされたとき、
物質であれ心理であれ、僕を侵害するものに対して、怒るのではないでしょうか。
それが良い悪いなどという判断は片付けて下さい。
もし判断が加わると、僕は怒ってはいけない、あるいは、怒りは正当だ、でなければ、
怒るべきである時と怒るべきではない時、などと分割して訓練してしまいます。
一連の怒りについての事実は、自分を防衛する為の反応です。
防衛する時、僕は対象から逃げたり、攻撃を加えたり、正当化や非難を加えます。
勿論、毒を持つ動物や、向けられた刃には迅速に対応する必要があります。
しかし、心理的な侵害に関して、どうして怒るでしょうか。何が損なわれるでしょうか。
心の怒りは、観察や理解に蓋をする類の、古い反応ではないでしょうか。
僕が怒る時、対象へ注がれる注意は消え、単に感情の吐露があります。
従って、怒りは利己的で不注意です。


 *


「平和の維持の為に、戦争が行う役割がある」
自称にしろ他称にしろ、現実主義者と呼ばれる人たちの言う「現実」とは何でしょうか。
こうあって欲しい、こうあらねばならない、こうあるべきだ、という理想主義に対し、
現在こうだからそうするしかない、こうに決まっている、と言う時、
それもまた現実主義という理想、別種の結論ではないでしょうか。
現実という言葉を使う時、それは実際の現実を指してでしょうか、
それとも、現実という言葉についてのイメージや情報でしょうか。
どうして攻撃的に解決される必要があるでしょうか。

僕は反対や否定の意味を持たずに疑問を投げかけますが、
いつも彼らは、どうして語気を荒らげて答えるのでしょうか。
あるいは、自分たちが現実主義者であるという自負からか、
それに異議や疑問や考慮を投げ掛ける者は全て反現実(理想主義者)であると言うでしょうか。

混沌の拡大を良しとするなら、続ける他ありません。
如何なるレベルであれ、暴力に対する更に大きな暴力、
力による解決というのは、利己で、延期で、不毛です。
如何なる理由であれ、僕が貪欲や暴力を肯定するなら、
どんな優れた政治体制を敷いても、内側から破るでしょう。
どんな平和的な言葉を使っても、行為は破壊的で、矛盾しています。
法や罰則による抑制・調整・排除によって解決されていると僕たちは考えていますが、
今も根本的問題は解消されないまま野放しで、それは燻り、再び焼きます。

「やらなければ、やられる」
イジメにしろ戦争にしろ、僕たちが他人を持ち出す時は、それをやめる気がありません。
人よりも自分が大事か、むしろ混沌が続いて欲しいかです。
僕はそれについて、正当化も非難もありません、何の意見も持ちません。
現実に起こっている混乱は、僕の内面が具現化したものであると思います。
恐れているので、他者に危害を加え、奪い、保有します。
それで、この気の滅入るような混沌を終わらせる気が、全くありません。
どうしてでしょうか。


 *


どうして、乳幼児や容姿端麗な異性には積極的には好意を示し、
気に食わない人やホームレスには嫌悪感を示すのでしょうか。
どうして、好ましい人は褒め讃え、嫌いな人には罵倒中傷するのでしょうか。

僕はこれらを、正当化や非難、批判や皮肉の気持ち、良い悪いの判断も無く、
見ています、考えています。
すぐに「それは当然だ。常識だ」とか、
「反省しよう」などと言わないようにして下さい、どうか。


あるいは、周囲があなたを過去に当て嵌めてくる場合もあります。

僕があなたについて過去を通して出会うなら、
「あなたは〇〇が好きだから」「××は嫌いだったね」と、
経験から引き出された嗜好を再度強制し、あなたを条件付けの中に押し込みます。
何故なら、昨日そうであったあなたが、今日も同じであって欲しいからです。
古い思考で捉えうる対象でいて欲しいのです、未知のものであって欲しくないのです。
本当はあなたは、昨日までのあなたにうんざりしているかも知れません。
なのに、僕の方では、自分が安心したいが為に、現在のあなたを犠牲にします。
そういう訳で、僕は思考の身勝手さを見ます。その時、動きます。
昨日の共産党員は、今日の新自由主義者かも知れません。
今日の生物学者は、明日の掃除夫かも知れません。
一貫性や誠実の要求は、変わらずにあって欲しいという私利ではないでしょうか。
人は変化を嫌います。しかし好むと好まざるに関わらず現実の変化は続きます。
だから人は永続、継続、保留、保守を望みます。
その願望が現在を破壊します。過去によって吸収しようとします。
僕は相手に私利を、過去の情報を押し付ける事の残酷さを見ます。
一切の情報を絶った、あるがままで、相手を見る事はあるでしょうか。
それは、僕が自分の恐怖と、相手の現在を見る時です。


 *


正しい生計、について考えています。

今の仕事に不満はありませんが、疲労や鈍感さには問題を感じます。

僕の好きなものは何でしょうか。
時間を忘れて没頭するもの。分かりません。

絵が好きですが、上手くはありません。
だから、それで食べていく事は出来ないと考えます。
僕は恐れています。

不自由は恐怖を回避した結果であり、その恐怖は無知から来ています。
無知であるとき、自由の智慧が無いとき、僕は怯え、過去の奴隷で居続けています。

僕たちの意識、無意識はどうして断片的なのでしょうか。
どうして全体を見ないのでしょうか。



恐怖には二つのものがあるのではないでしょうか。
一つには、飢餓や毒虫や武器を持った人などの、迫り来る物理的な危機であり、
もう一つは、自らの思考の作り出した架空のものです。

未来に対する恐怖は、過去を引き伸ばした投影物です。

近親や知人の扶養、仕事上の責任、肉体的疲労、周囲の抵抗、
人が様々な負荷を背負う前に、本当の若い時期に、理解されなければなりませんでした。
しかし、それを教える人、示唆する人は居ませんでした。
現在の僕は既に、死んだものに絡め取られ始めています。

古い人は、これからの若い人に、「それでは食えない」「現実は厳しい」「成功できない」と脅します。

僕たちは共に、実際の事実と関係の一つ一つを詳細に調べ、
共感を通じて理解していく必要があります。
それが教育ではないでしょうか。
教育は、知識や技術を与える面だけが強調されますが、それも重要なのですが、
感情と思考と行動の統合、恐怖を超えること、自由にある事の教育も必要ではないでしょうか。

そして後者は明らかに「知っている者」から「知らない者」へ与えられるものではありません。
誰もそれを知らないからです。
何故なら、知っているという事自体が過去であり、権威と模倣は腐敗した不自由さへと導くからです。
教える事が出来るのは自分だけです。
ですから、水や食を欲するように、独断・意見・目的・意図などなく自発的に、
完全さを探求する為に静かな少数が対話し、場を共にするという教育が必要です。
静かにあり、探求する人は、少数です。
今、人は混乱にあり、結果を求め、騒がしい為、場がありません。

全くあたらしい若い人を、古い人は、個人的な経験、恐怖の投影、自己肯定などにより支配したがります。
あたらしいものを古いものに吸収する事で、彼らは安心したいのです。
何故なら、古いものはあたらしいものを捉えられず、あたらしいものは古いものを捨てるからです。

しばしば彼らは「愛しているから、心配しているからこそ言うのだ」と主張します。
しかし実際、愛などありません。
支配、規制、矯正、服従がある時、そこに愛はありません。
彼らは、それを「いかに愛しているか」を語る時、それを愛してはいません。
自己拡大の為にそれに依存し、狡猾に利用し、
それを失うことを恐怖している時、愛はありません。
何故なら、彼らにとって重要なのは自己であって、対象ではないからです。

本当に対象が重要であれば、僕たちは彼を注意深く観察する必要があります。
そして、注意深い観察があるとき、過去は捨てられている為に自己は無く、
現在の動きについていく事になります。
(しばしば僕たちの行っている事実は、他人の利用と支配です)

食べていけない恐怖の為に自由を放棄する時、現在は死んでいます。
もし、それをしたいと欲する時、厳しさや易しさは問題ではありません。
成功の見地から考える時、行いは過去の中のシュミレーションであり、空虚です。
才能という言葉を使う時、その適応・順応・習慣・服従の性質を見ましょう。
順応しなくては、爪弾きにされ、好奇の目で見られ、噂を流されるでしょう。

伝統や条件付けの複雑な困難さを見ます。
隙あらば逃避する姑息さを見ます。

再び、僕は何も知りません。