求めよ。さらば与えられん(笑)

【画】

『胡乱の重荷』



【曲】

『無駄手無駄足』

http://voon.jp/a/cast/?id=9d9p90uxfnfeb3ub&c=4&t=1





仕事で大きな失敗をしました。

上司に囲まれ、叱責されました。
今後どのような措置、評価をされるかは分かりませんが、
実際に自分が出来る事は対策と予防だけです。
クビならそれまでです。

とても悲しくなりました。
その自分の様子を見ます。

その感情を追います。
関係者への申し訳なさ、反省、自責、後悔、失敗に関する過去の連想、
仕事や評価を失う恐怖、羞恥、傲慢、情けなさ、胸腔に煙る様々な種類のかなしさ。

その思考を追います。
感情の名付け、説明の仕方、対策法、仕事の進め方、人の言動、
周囲との比較、環境の再認識、辞職、失業期間、次の職、生活について。

その動きを追います。
目線の下がり具合、呼吸の苦しさ、頭の俯き、足取りの重さ、判断の鈍り、気分の落ち込み、
次々に湧き上がる習慣的な機械的観念、固定化されたマイナス思考回路の閉鎖循環。
本や音楽やインターネットによる紛らわし、進んで行う感覚の鈍化、思考の分析や逃避。

悲しい感情の中心は自己で、その大部分は自己憐憫です。
悲しいと名付けた瞬間から、感情は分裂し、細分化され、
思考は過去の反芻に終始します。事実への対処を除いて。
悲しい動きは思考と感情が自ら理解されず、
感覚へと溜飲された時の身体反応です。

精神の自己中心的な作用を見ます。
ここから離れる事は出来ません。
反・自己中心になる事も誤りです。
僕は避け、離れ、忘れようとしますが、
かなしいときは、そこに留まり、ただかなしくある必要があります。

僕は注意深くありません。
この不注意さ、浅はかさの原因は何でしょう。
僕は不注意のまま注意深さを獲得する事は出来ません。それは無思慮な付け焼き刃です。
注意深くある為には、今どうして不注意なのかを理解し、
不注意さへの慎重な注視を知り、不注意さ自体からの解放される必要があります。

また、何かしらの知識や教義を頼る事は、不注意さの深刻化を招きます。
他人によって書かれた事は、感情や思考の公式化であって、
工程によって求められた答えは得られますが、真実ではないかも知れません。
自分で見い出さなくてはなりません、誰にも教わる事は出来ません、
教師は自分だけであり、生徒は自分だけです。

意見は自己暴露であり、断片的です。
それに無自覚である事は偏狭、硬直、自己の強化を引き起こします。
にも関わらず、強い意見や主張やこだわりは、社会によって強制や奨励がなされています。
また、それらの反対物、引っ込みや黙秘や放蕩も、方向を違えた同質のものです。
予め設定された目標、養成された考えや意図は、
過去の解釈によって未来へ立てられた計画であり、現在の理解ではありません。

僕たちは、求めたものが、得られます。
そして、得られたものが、求めたものを示します。
貴金属であれ、理論体系であれ、あるいは言葉や神への信仰であれ、
求めるものは欲望であり、貴賎なく、自己の投影物です。
何も求めない、という意思すら、欲望を示しています。
結果、解釈に対して個人各々が”求めた”答えが”得られ”ます。
思考、欲望、意思というのは、そういった性質を持っています。

良い悪いという評価、判断はせず、
その事実と関係、反応や感覚を見ています。

僕は苦痛、葛藤、悲しみから逃れたい。
僕は苦しみの無い完全さ、自由を欲します。
しかし完全で自由である為には、不完全さと不自由さを理解する必要があります。
何故なら、僕が自由を望むのは、現状が不自由だと感じるからです。
無自覚な不自由のまま、自由だと推測され定義されているものを獲得する事は無意味です。
苦痛や葛藤を理解しないまま、そこから離れる事は、保留と回避に過ぎません。

外装と内容の過程を見ます。
取り付けられた外部は、抱え持った内部によって破壊されます。
実際、人にしても、仕事にしても、嗜好品にしても、
僕は、調子の良い時はそれ受け入れ、事態が悪化すればそれ捨てたがります。
もし僕がこの気紛れに気付くなら、形を変えたそれが世の中で行われているほとんどです。
ですので明らかに、受容と放棄は同じ事です。
問題は、対象ではなく、僕の対象への接近の仕方です。

対象を理解する必要がある時、どうして対象の反対へ走るでしょうか、
言葉として影の方を追うでしょうか、自分から離れるでしょうか。

僕が幸福ならば、「いま自分は幸福だ」とは言いません、
事実に抵抗せず、意識しないので、その状態に気付きません。
僕が「自分は幸福だ」と言う時、それは過去であり、言葉であり、剥離された記憶、
経験内の思い出との比較によって表された比喩、現在を空虚にする妄想です。
そして現在は過去に吸収され、人は過去の中に生きます。
幸せ、美しい、愛している、矛盾も苦しみも無く自由である、
そういった一連の事実(ときには真実と呼ばれるもの)、
僕に喜びを与える瞬間は、名付ける事で破壊されます。

感情なり人や物なりを、”名付ける”という思考の作用は、
現在を知識や経験で搦め取る作業です。
垣根に垂れた花を、名前で呼ぶ瞬間に、観察は終わり、名前についての知識を見ます。
また、衝動的に湧いた感情へ「嫉妬」や「失意」などと名付けることは、
観察を終わらせ、その名前についての言葉上の情報を操る事になります。

表現しようとする意思は破壊です。
何故なら、何かをしようと意思するものは自己であり、自己は過去です。
僕には芸術的な才能は無い為、ピアノや絵筆や舞踊によってそれを表す事はありませんが、
言葉や想像や行為によって、いつも事実を破壊します。
観念によって固めた観念を私物化し、重要視します。

どうして、一部が重要になってしまうのでしょうか。
生は全体と関係の流動であるのに、
どうして、一面、一部分、一点だけが、固定化され、重要になってしまうのでしょうか。
人や物が、仕事や趣味が、セックスや自慰が、家族や恋人が、国や信念が、
何故、特定のものが他のものより重要になってしまうのでしょうか。
それは、それだけが自分を肯定し、心地よく、支配下にあり、
あるいは限定的な自由の感覚であり、幸福を感じさせる手段だからです。
ですから同一化し、追い縋り、思い出し、繰り返します。
が、全体を無視し一部分を重要にする事は、
自己を肥大させ、鈍感に、無神経に、残虐にさせます。
嗜好や美醜や、あるいは正義や道徳といった条件付、個人的な選択がある時、
それは歪な感性であり、不完全で不自由な俗悪の感覚です。

選択は、思考が全体を分割する為に発生し、階層化し、競争をうみ、
追求が浸透し、社会はこれを肯定しています。
思考が、知識によって基準を立て、上下や左右に分割します。
そこに順応する人々は正当化し、
その反対側に、否定し批判する人々がいます。
僕は社会から逃れる事は出来ません、従って、
この不毛な対立の渦中から離れる事は出来ません。
しかし、理解する事で自由になる可能性ならあります。
こだわらず、抵抗しないならば、対立は消え、葛藤はうまれません。

傷付きやすくある必要があります。
鈍感さは力であり、感覚の硬直であり、死です。

感情と思考と行動の統合が、自由の地盤です。
なぜなら、分断は明らかに葛藤・矛盾・対立を引き起こし、
破壊的で不自由だからです。

不自由の中で自由にある事は、
不健全の中で健全にある事は、出来るでしょうか。