ラララ快速、快速

はてなアンテナに更新が反映されないのですが、何故なんでしょ。
別にいいんですけど。



【画】

『銀輪は唄う』




DAWソフト『Cubase Studio 5』を購入。
使い方に慣れるよう、動作環境を整えるよう、しばらくいじる。


掘骨砕三『はんぶん娘』を購入。
蟲、改造、畸形、獣とかそういう養分が無い、ふつうのふたなりもんだった。





地獄先生/相対性理論
http://www.youtube.com/watch?v=R4Ik8-RGUZk




環境のあらゆる刺激は、挑戦です。
環境とは、古いもの新しいもの、既知のもの未知のもの、正しいもの偽りのもの、
そういった綯い交ぜの全てである生と、僕が触れ合う接触面です。
なので、僕自体も、環境を作り出す本体です。
環境に対する反応として、快、不快、好き、嫌い、怒り、喜び、
様々な知覚・感覚があり、思考・感情が発生します。
挑戦と反応の一つ一つを慎重に調べる事が理解です。
そして、無理解とは無自覚の事であり、そこから出る行為は無思慮で無慈悲です。
自覚という基礎地盤と、生の事実との相互関係、
全体の認識が無ければ、どのような成功、満足、感情、
あるいは金言、人生論、処世術も、空虚です。



僕は「静かに見ている」という事を滅多にしません。
物事を目の当たりにした時、
自家製の条件付けに従って解釈し、
自己の正当化や他者の批判、その逆の反省や追従、
賛成や反対、権威から引用、蓄積された知識や経験との比較・測量・判断、
思考の騒がしさによって、混乱していきます。
物事の事実を見る為には、騒がしさは一掃される必要があります。
何故なら、騒がしい時、対象を決して見ていないからです。


一挙手一投足の言動が自己暴露です。
瞬間瞬間に、自分の習慣・偏向・条件付けが表れます。
その詳細に気付く為には、僕自身が「静かに在る」必要があります。
「静かに成る」のは、獲得の過程、単に騒がしさに対する反動であって、別種の騒がしさです。
「静かに在る」には、騒がしさ自身が止む必要があります。
騒がしさが止むのは、その全容を理解する時です。
ある行為を理解する時、それが自然と止むのを、僕は体験します。
何故なら、騒がしさと僕は、別個のものではなく、同一のものだからです。

僕が自身の利己、暴力、搾取、偏見、破壊、愚行、虚偽を理解しなければ、
例えどんな理由や理屈を付けてでも、それらは続けられる事になります。

事実への騒がしい反応を理解し、混乱の暴力を見、無思慮の残酷さを知り、
それでも尚、同じ事を続けるようであれば、僕は死んだ人間です。



崇拝の様相を見ます。
物であれ、人であれ、観念であれ、崇拝というのは、自己投影です。
理想化された対象へ依存し、見たいものだけを見、
生の恐怖から逃避する為に、卑小な畏怖を安全な隠れ蓑とします。
崇拝する時に基準とされる価値というのは、教えお仕着せられたものであり、過去の遺物です。
自意識というのは蓄積された過去によって再編成された意思なので、
それ自体を維持する為、過去への崇拝を行います。
自己、過去、崇拝は同一物です。
自己が自身を分離して、それぞれの虚偽の関係性を作り出す事で、
永遠や普遍などを創出・演出し、安心を得ようとします。



愛着の様相を見ます。
それは私利私欲による所有観念です。
所有は対象を支配する行為で、支配はいかなる形であれ破壊です。
僕は、ひとたび所有すれば、失う事を恐れ、それを守る為に攻撃的になり、
傲慢で、意固地で、狭量で、貪欲で、残酷になります。
執着やこだわり、信条や教義、日用品や嗜好品、近親や有名人、
あらゆる愛着は所有への願望であり、破壊的行為である事を見ます。



選択の様相を見ます。
僕は、好きなもの、気持ち良いもの、楽しいもの、心地よいもの、聖、善、美を進んで求め、
また、嫌いなもの、気持ち悪いもの、悲しいもの、心地悪いもの、俗、悪、醜を忌み避けます。
しかし、生は、望む望まざるに関わらず、その全てを含んでいます。
好ましいものを求め続け、疎ましいものを避け続ける、
僕が生から選り好みする限り、状態は歪であり続け、葛藤や矛盾は止みません。
個人的な嗜好や選別は、生を偏狭にし、自我に固執させます。
良いものだけを選んで生きて行くことは、自己の膨張・肥大・硬化・追及を促進し、
それを獲得し、所持し、守ろうとする為、僕を暴力的にし、従って死をうみます。


物事を分かつもの、両極にするもの、その対立を作るものは思考です。
分割して選択する、この機械的な選別作業が理解だと考えられていますが、
果たして、”分かる”ことは”理解”でしょうか。
正しいのは全体です。部分だけであることは誤りです。
思考は”分かる”(情報によって部分を把握します)ことはしますが、
全体を見て”理解”することはありません。

正しい論理性は必要ですが、理論の取り扱いは慎重でありましょう。



何故、僕は、持ち物、結果、付加価値を望み、求め、執着するのでしょう。
どんなに才能や恵まれた境遇があろうと、どんなに賞与や肩書きが得られようと、
この願望の過程を理解しない限り、僕の葛藤と破壊には際限がありません。


崇拝、愛着、所有、獲得といった虚偽の繰り返し、
それが何故起こるのかというと、僕自身が空虚だからです。
己の空しさを埋める為に、知識、金銭、学位、作品、肩書き、経験などを浅ましく掻き集めます。
そして、空しさからの逃避は、矛盾や葛藤を押し広げます。
「あるがままの僕」で”在ること”はあまりに空しく、耐え難くつまらないので、
「あるべき僕」に”成るべく”して装飾的な虚偽を積み重ねます。
こういった「”闘争”こそが人生だ」と一般的に言われていますが、それは本当でしょうか。
闘争なしに生きる事は不可能でしょうか。
矛盾や葛藤、そういった逃避は止むでしょうか。
逃避は恐怖を持つ時に行います。
恐怖とは何でしょうか。
何に対しての恐怖でしょうか。
漠然としたものでしょうか、対象の定まったものでしょうか。
対象の無い恐怖はあるでしょうか。
果たして、恐怖という個別の感情は存在するでしょうか。
僕と恐怖は同じものです。
僕自身が恐怖であり、その作り手です。
恐怖というのは、思考が知識・経験・想像を引き出して感情を刺激する状態であることを見ます。
恐怖は、事実への対処を鈍らせます。


言葉は、意思疎通の段階に留まる必要があります。
それ以上のものは幻想です。
幻想は過去の投影で、古いものです。

思考はその枠を出ません。
それ自身の中でだけ動きます。


思考の排他、偏狭、自閉、独善、破壊の性質は、
拡大された自我による選択が追求された結果ではないでしょうか。



”特殊化”の様相を見ます。
習慣や訓練から、それは鈍感さと共に変化を失って硬化し、それによる安心へ至ると、
今度はそれ自体を所有物とし、道具にしてしまいます。

自己同一化は、特殊化の一つです。
思想、信念、才能、友人、恋人、家族、仕事、肩書、財産、国家、団体、
何れに属するにしろ、自分から離れたものへの、
「より大きな」「より多く」への自己同一化は、無思慮をうみ、害悪を及ぼします。

僕たちはひとりでありましょう。
さもなくば容易く誤ります。



孤立、孤独、単独、
僕がひとりで居ることは稀です。
というのは、社会で生きているという物理的な意味と共に、
精神的にも、決してひとりになろうとしません。
一般的に言う孤独感というのは”集団”との対比で語られる為、
「孤独だ」という時の僕の心は、誰か、人で一杯です。
思考する僕は、ひとりで在る、という事が恐ろしい事のように思えます。
それは、安全な基準、安心な過去、信じるものや頼るものを一切を捨て、
現在に対して無為で無防備に挑まなければいけない事を意味するからです。
思考はひとりで在る事を恐れます。
ひとりであること、過去の放棄は、思考の消滅だからです。
単独であるというのは、木がすっと伸びるような、鳥が滑空するような、
「ただひとり在る」という状態です。
木が並んでいようと、鳥が添って飛ぼうと、あるいは一本一匹であろうと、
その状態は、過去が無く、開いているので、孤立せず、孤独はなく、単独です。
そして、僕が単独であることは稀です。

僕たちはひとりでありましょう。
さもなくば容易く誤ります。