「いけ、しゃあ、しゃあ」とヒトリが鳴いた(笑)

宇治茶と煎茶、外套とズボンを買った。


Cubaseの操作も慣れてきた感じがする。
しかし、知らないだけで、便利な機能というのがまだまだ沢山あるのだろう。



【曲】

山茶花の並んだベランダ』
http://voon.jp/a/cast/?id=orz1m8d5ah2se6rh&c=9&t=1



どうして僕は、好きや嫌い、怒りや恐怖、比較や評価で判断するでしょうか。
どうして、過去によって養成された個人的な、従って断片的で不完全な目で見るでしょうか。
どうして同じ事を繰り返すでしょうか。
うんざりするような繰り返しを終わらせる事は出来るでしょうか。
いかにしてそれは終わるでしょうか?


批判という行為の、心の動きを辿ります。
対象への批判というのは、何らかの基準となる自身の規範が存在します。
「本来かく在るべき」「こう在らねばおかしい」という理想と事実との比較により。
教えられた道徳、常識、習慣、知識に養成されたイメージ、過去の反転投影としての未来、
これらを持って臨む時、現在から理想への強制力が働きます。
その時、現在は分析、批判、「変えなければならないもの」としての単なる標的となり、
結果、観察されず、理解されません。
表面的な政策や法、システムや規制が敷かれるだけで、それはいずれ破られます。
理解されないものは、根本的な変容もないからです。



僕はしばしば、事実や関係に出会って、知識やイメージで考えるという過ちを犯します。

例えば、人と話すとき、文章を読むとき、対象について考えるとき、語るとき。

文章なら、情報として言葉面だけで見ると、文字からの解釈や判断に終始してしまいがちですが、
そこには、言う人の意思、気持ちの方向、伝えたい内容、指す事実などが含まれています。
そこで、僕は噂や評判や周辺情報の収集をする事で理解へ近付ける、と考え、そうします。

知識の蒐集は、確かに、物事の周辺にしか導きません。
その属性は、騒がしさで持ち切りで、考える静かさを持ちません。

僕らは対象を、利己的に利用する事も、利己的に利用しない事も出来ます。
(もし僕とあなたの認識に大きなズレがなければ、)
心理的利用と機能的利用、と言い分けても良いかも知れません。
そして、知識や情報は、機能的利用に留めましょう。

僕が知識、定義、正義、意見、解釈、抵抗、感情、など予め持って、対象に臨む時、
対象を理解しません、読み取っていません。
騒がしいものは、静かなものに開かれません。
断片は全体を見ません。
そして、見ないものは理解されません。

「素直に目を向ける、耳を傾ける」というのは、
一切の前提の放棄と、全体に注意を注ぐ、という事ではないでしょうか。

「虚偽を虚偽と見、真実を真実と見る」ということの一端が、そこにあると思います。

そして、僕が何も準備を持たないとき、葛藤や矛盾はありません。
何故なら、それらは、事実と思考との間隙、自己の騒がしさが起こしているからです。

注視と行為が同時であるとき、思考者による思考はなく、気付きがついていきます。

気付くことには、反応や対処があります。
気付くことと考えることの間に、自己による思考が時間を作り出すとき、問題が出てきます。
問題に対する直接的な理解、対応を妨害しているものは何でしょうか。
自己とは過去です。
時間とは過去が生む距離です。
現在への過去の介入が、物事を複雑で不鮮明にしています。

何故、僕は目を向けないでしょうか、耳を傾けないでしょうか。
何が、正しく考えることを不可能にしているでしょうか。

この、自己とは、過去とは何でしょうか。
現在へ単純に在ることはできるでしょうか。
気付いているでしょうか。