バリタチデカマラ浮草や 選民どもが夢の跡(笑)


□白雪みぞれ - Snowstorm
http://www.youtube.com/watch?v=ZAOfNtVpfoA

懐古感傷的な曲、切ない呼吸が好き。



□Paradise Circus (Video) NAPO / Massive Attack con Hope Sandoval
http://www.andamosarmados.com/?p=27007

http://special.the-raft.com/massiveattackdvd/paradisecircus_full.swf

元ポルノ女優のおばあちゃんが半生を語りつつ、流れるマシヴアタクのPV。




□Public Domain classic
http://public-domain-archive.com/classic/

「日本での著作権保護期間が終了し、パブリックドメインとなったクラシック音楽を公開しています。
現在の収録曲数はおよそ4200曲です。全て無料でダウンロードできます。」




【自作曲】

『Kommunikasjon』
http://voon.jp/a/cast/?id=f3vi12x3i4r8e2y9&c=4&t=1

男女の歌は、
スカンジナビア半島北部及びロシア北部コラ半島に住む少数民族サーミ人によるヨイク。
サーミ人http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%9F%E4%BA%BA




伝達の難しさがあります。

言う人は、主張します。
聞く人は、翻訳します。
書く人は、限定します。
読む人は、解釈します。
考える人は、硬直し、閉鎖し、分割します。

勿論、機能としての言語や文法は必要ですが、
自分の中に、人と人の間に、沢山の障壁が、混乱が、選択が、あります。

つまり、普段の僕たちは、ほとんど正しい伝達を行っていません。
伝達を不可能にしているのは、混乱している自己です、
自己が即ち相手です、僕もあなたも混乱しています、
自己と相手の織りなす関係が即ち社会であり、現に社会は混乱しています。
ひとりひとりが正気でない限り、歪みがいくら集まっても、正しい建設は出来ません。
これは実際、明らかではないでしょうか。
従って、僕たちは自己を理解し尽くさない限り、社会と関係を持ちません。

言葉の重荷をすっかり降ろしてしまった状態の、
「正しい論理」と「素直な伝達」による「朴訥な関係」は、果たして可能でしょうか。
その為には最初に、あらゆるものから自由なひとりで居る必要があります。



凄まじい量の光を落とす太陽、解けながら流れる雲、上澄みの遠景、
夕日が沈むまでのしばらく、真っ赤に焼けた川、夜の膜に針穴の星、
皮膚を剃る風、放縦な枝を膨らませる木立にばら蒔かれた引き締まった葉、
路地に外套だけで寝る人、集団で楽しげに騒ぐ人たち、寄り掛かり合う男女、
油とアルコールの匂い、飲食店の活気、ティッシュを配る人による通行人の選別、
擦れ違う人のため息、追い越していく人の駆け足、路上で歌う人に集まる人、
疑いの眼差し、困惑の表情、放心した肩、疲労の輪郭線、
俗っぽい噂、喧嘩腰の口論、静かな感想、酔狂に巻かれる管、
ブツ切りの発射のベル、電車に溜まった気怠い空気、扇情的な吊革広告、
点滅しながらビルの後ろに滑り込む飛行機、水面をゆらぐ鴨の親子、
いろいろ、ぼんやり見て、思い、消え、考え、忘れます。

太陽系の動きと惑星の回転があり、引き合う力と離れる力があり、地球の自転公転があり、
日照と暗闇、摂食と睡眠、温度や環境の変化など、
自然と生物の関わりが、生態と生活を形作ってきました。
太陽暦から、年月日時分秒と細かく分割され、時間という概念が作られました。
農作物や動物の飼育の為、環境や気候の活動と生活の為、
人と自然の接点を調整する為に考え出されたであろう”時間”が、
今では、細部まで心理的に人間を分割し、束縛しています。
あるいは、その後、時間によって創作された、言葉、思考、権力なども。

どうして、機能と心理が一緒くたにされてしまったのでしょうか。
どうして、実際の在り方よりも、観念の方が大切になってしまったのでしょうか。
どうして、こんなにも、言葉が、知識が、思考が、重要になってしまったのでしょうか。
生物の命よりも重要視される観念など、必要でしょうか。

「今あるもの」と「あるべきもの」は、どちらが要点でしょうか。



時間という観念と、永続を願う自己が、摩擦を生み出し続けている現状を見ます。

問題が生まれるのは何故でしょうか。
どうして、全体の中から、何か一部が、問題になってしまうでしょうか。

今まで教わった知識や教条、伝統や習慣、見聞きした噂や憶測、書物に書かれた文章、
皆で互いに押し付けあってきた既成概念や常識、自ら養成してきた観念や性格、
これらの物事から自由になる事は出来るでしょうか。

というのは、僕たちが持つ葛藤、矛盾、不和、苦痛のほとんどは、
それら不自由の要素である「既知のもの」による創作だからです。

古い物事への固執、そのうんざりするような繰り返しが、混乱の再生産を続けています。
過去に対する依存が、そして、過去の希望的投影としての未来が、
現在を正しく生きる事を不可能にしています。

「あるべきもの」が「いまあるもの」を破壊しています。
そして、「いまあるもの」が破壊的に、蔑ろに、不注意に、無思慮に扱われるとき、
そのときの動きや発言に、一体何の意味があるでしょうか。

それでも、僕たちは過去の条件付けを後生大事に匿います。
混乱、葛藤、矛盾、虚偽の根源であるものを、どうして手放してしまわないのでしょうか。

それは、僕たちは混乱の中に、刺激や快楽、安心や逃避を見出しているからです。

僕たちが今、実際に起こっている様々な形で表出する混乱を終わらせたいなら、
それらに注意を向け、理解する必要があります。
理解するためには、静かで、ひとりである必要があります。
そして、それでも混乱を続けるのは、単に「理解したくない」からです。

既知は、過去に依存した観念であり、思考や心理に安心を齎します。
何故なら、思考や心理もまた過去に依存したものであって、過去なしには成り立ちません。
観念と思考と心理は、既知が創作する同一物です。
既知は過去なので、未知である現在を含める事が出来ず、
即座の対応が出来ない為、恐れ、吸収しようとします。

思考と思考者、信仰と信仰者、心理と心理する者、観念と観念を弄ぶ者、
いずれも、同一物それ自身が分離し、内部で虚偽の関係性を創作する事によって、
永続する自己というものを築き上げようとします。

知識、欲望、常識、法律、権威を持ち出すとき、
評価、判断、結論、解釈、批判を行うとき、
良い悪いや、好き嫌いや、優れている劣っているを言うとき、
僕たちは単純な観察と正しい思考を止め、
見ることや聞くことを終わらせてしまいます。

現在を恐れる不安の心が、過去へ吸収する事で安心を得ようとします。

目眩がする程に繰り返され、今も現在を破壊し腐敗させている、
この過去を利用した無自覚の機械的な行為を、終わらせる事は出来るでしょうか。

単純で、朴訥で、清廉である自由の状態にあることは、瞬間的です。
そこに観念的な時間が差し込まれると、過去が呼び出され、不自由が出てきます。


そして、問いはこうです。
過去に依存せず生きる事は可能でしょうか。

機能的な利用と心理的な利用、と区別しましたが、
それを常に見ている事は出来るでしょうか。



僕たちは何故、問題を見ないでしょうか。
いつも、何かしらの答えに縋り付き、あるいは名前・ラベルを与え、それで満足してしまいます。

問題に対して、教義やマニュアル、方法論や解答を与えることは無意味です。
結論や意見や方法や信仰といった「答え」は、根本的には「問題」を解決しません。
それは慰撫、誤魔化し、逃避、虚偽です。
与えられたパターンは、人間を心理的に殺し、事実から遠のきます。

問題の完全な解消は、問題を見抜く事のみによって可能ではないでしょうか。

僕たちは、言葉で、肩書きで、常套句で、欲望で、虚偽を塗りたくって問題を覆い隠します。
どうして、それから逃げながら、尚且つ、それを解決する事が出来るでしょうか。

また、制御、抑圧、規律、調整や折衷も、解決しません。
宗教、哲学、思想、経済、処世術、伝統、いずれの方法も、既に過去のものです。
それら暴力的な方法は、尚も問題自体の一部だからです。
内部に抑え込まれたものは、歪や傷となって外部に噴出します。
また、不調和な外部は、内部に影響します。
無理で不自然な状態は、解決ではありません。

苦痛、葛藤、不満、それが問題なら、真っ直ぐそこに向かう必要があります。
それは他の誰にも出来ません。
それは自分にしか出来ません。

そして、もし、真っ直ぐ単純に問題へ向かおうとする人が居るなら、人は協力します。


 *


解釈、について。

ある知識の前提に立つと、知っている者と知らない者が分割されてしまいます。
すると、一方が選ばれ、他方が選ばれないという事になり、
素直に協力して理解する、という作業が出来なくなります。

持つ者と持たざる者が分割されるとき、階級が作られ、
持つ者が持たざる者を、持たざる者が持つ者を、相互に利用する時、権威と模倣が行われます。
(分割や利用がなければ、それは共有され、問題にはなりません)

理解に、権威と模倣は必要でしょうか。
権威と模倣は、理解を齎すでしょうか。

知っている事と、理解する事は、同じでしょうか。

知っている事は、過去だけです。
理解する事は、現在だけです。


 *


「自信」とは何でしょうか。
自信を持つ、というのは「成功体験の積み重ね」である、とよく言われます。
成功とは、特定の目標を設定し、それを達成することです。
体験の積み重ねとは、記憶と経験のことです。

では何故、自信は持つべきなのでしょうか。
どうして、自信を持たなければならない、と僕は考え、人は教えるのでしょうか。

失敗を忌み、成功を賞賛する、自己実現のシステムを見ていましょう。

社会では、自己実現が勧められています。
より良い容姿、より良い学歴、より良い給与、より良い暮らし、
より優れた社会的ステータスを求めて努力し、競争し、獲得し、保持します。
そのルールに則って「当然だ」と言う人達が居り、
反発する人達も、無頓着な人達も、それぞれ居ます。

自己実現とは、理想を目指して、目標と自己の一体化を段階的に行っていくものです。
それは達成感、充実感、自負、高揚、優越、快楽などの満足を与えます。
満足は自己の拡張です。
自己を、より大きく、より尊く、より重要に感じさせる事で、安心を得ます。
システムは循環され、、個人の自己同一性が追求されていき、
より強固で、尊大で、重要な自我が意識されていきます。

自信と自己実現は、経験による獲得のサイクルです。

成功は、社会的評価と価値の所有感で自己を満足させると同時に、
失敗、挫折、恐怖、後ろめたさ、傲慢さを生むのではないでしょうか。

成功という経験は、過去から現在を束縛するものではないでしょうか。
昨日正しかったことが、明日は間違いかも知れません。

この実際を直接的に体験しているとき、
自信を持つべき、あるいは、持たざるべき、という前提は捨てられないでしょうか。
前提が無いとき、行為を阻害するものはあるでしょうか。



「悟った人って居るんですかね?」

悟った誰かは、居るかも知れませんし、居ないかも知れません。
しかし、その問いに意味はあるでしょうか。見ていましょう。

もし悟った人が居たと知ったら、あなたや僕は見に行き、話を聞きに行くのでしょうか。
そして、僕は自分の持つ気分や知識や経験による比較や計測で、
「本物だった」「偽物だった」と判断し、受け入れたり拒否したりするでしょうか。
その人を権威とし、模倣するでしょうか。
権威と模倣は、人類誕生から何世紀も掛けて行われてきました。
その結果が現在です。成功しているでしょうか。
知的な人々によるシステム、宗教的な人々による信仰、
ユートピアへの道筋や、理想的現実への青写真は無数に提供されてきました。
修正の連続と、実行と運営が行われてきました。
しかし尚も、戦争と貧困と暴力があります。
どうしてでしょうか。

見方を変えてみます。

僕が”悟った”ものを見付けるには、
予め”悟り”とは何かを知っていなければなりません。
たとえば、ウサギを捕まえる為には、
その姿形や生態を知っていなければならないのと同様です。

つまり、僕が認識し見出すものは、自分の領域内だけです。
自分の領域とは、すべての過去です。知識、意識、経験、記憶、自己など。
”悟り”や”真実”は、過去の中にある古いものでしょうか。
今まで、宗教や哲学、教義や伝統によって、そう言われてきました。
蓄積によって獲得される資格であるとされ、
多くの人に勉強され、修行され、追求されてきました。
しかし、それならどうして未だに、世界の残虐、個人の混乱が続いているのでしょう。

また、自らの現在が混乱や苦痛や矛盾に満ちているが為に、
それらの無い状態を未来へ向けて想定するが故に、
僕やあなたは「悟った人」を求めている、という事に気付いているでしょうか。
問題を作っているのは自分です、自分は過去です。

そして、僕やあなたが動機や目的を持つとき、
古いものによって、新しいものと出会うことは出来るでしょうか。

この一連の追求の行いは、人を真実へ導くでしょうか。
答えや結論を求めていて、現在は理解されるでしょうか、問題は解消されるでしょうか。
これは明らかに間違いではないでしょうか。

従って、悟った人が居るか居ないかは、問題ではないのではないでしょうか。

わたしもあなたも、ただの人間です。そこから始まります。

安易に答えを求めず、問題に留まりましょう。
知識の蒐集で満足するのを止しましょう。

どうしてそれが問題になってしまったのか、見て、聞いて、気付いていましょう。



動機について。

生存の為の必要と、心の求める必要があります。
貪欲に追求し、獲得し、保守することの浅はかさを見るなら、
母親が恋人に、母乳が御馳走に、抱擁がセックスに、ガラガラが仕事や武器に、
喃語が主義主張に、ベビーベッドが土地や財産に、家庭が国家や民族に、乳母車が高級車や戦車に、
欲望の幼稚さはそのまま、
対象が小さいものから大きいものへ、やり方が単純から複雑へと、
単に置き換わっただけはないでしょうか。
そして、それが人間の生きる目的だと騒がしく宣伝されています。
また、置き換えられた欲望が結果的に及ぼす影響の大きさに、自覚的である必要があります。

動機から起こされる言動は、自己を中心としているが故に、破壊的ではないでしょうか。

現在が貪欲で自己中心ならば、そのままで居て下さい。
「僕は貪欲ではありません」と、本当の意味で言えるまでは、留まります。

偽らずに言うなら、意見や判断や捨てています。
「僕は貪欲です。それの何が悪い、これこそが人間だ」
「僕は貪欲です。これから貪欲ではなくなろうと思います」
そのどちらも動機に基づいた意志の行為であり、
自己を更に複雑に、重要に、狭量にしていきます。

動機の解消は、それに反発することではありません。
貪欲に対する反貪欲としての質素は、尚も貪欲の範疇です。
自己に対する反自己としての献身は、尚も自己です。

「誤った思考を解消する」ということが、
「涙もろく」なったり「声高に」なったりすることを意味する訳ではありません。

僕が言うとき、動くとき、その動機を観察します。



愛着は利用です。

利用のある所に、単純な意味での愛はあるでしょうか。
恋人や家族を、民族や国を、平和や自由を、愛していると人は言います。
そのとき、対象を自己の満足の為に利用しているなら、それは欺瞞であり破壊的です。

愛着すること、期待すること、所有することは、利己的利用です。
自分の為に相手を消費する行為の残虐を、見るでしょうか。

僕が対象に依存しているなら、コレを選んで愛し、アレを選ばずに愛しません。
そして、他の誰かは、アレを選んで愛し、コレを選ばず愛しません。
このときに起こる分断、対立、争奪、無責任、残酷、無思慮を見るでしょうか。

果たして、愛することは、選択する事でしょうか、何かと対立するでしょうか。
断片的で矛盾する不完全なものは、果たして愛と呼べるでしょうか。

明らかに混乱を引き起こすなら、僕は愛着を捨てる必要があります。
選択することは、それ自体が分断を引き起こします。

僕たちは、無選択で、無矛盾で、完全な状態にあることは出来るでしょうか。



僕は、矛盾も葛藤もなく、好きなことで静かに、平和に暮らせるでしょうか。
様々な条件付けから自由になる事は出来るでしょうか。
それは全く単独の個人から始められる必要があります。
何故なら、現在の社会は、僕とあなたの関係そのものだからです。
権力の模倣、知識の従属、集団のプロパガンダは、尽く誤りました。
全く新しく始められる必要があります。