いざ便出さぬワラジムシ、スーパーマーケット糞の特売チラシ裏に拭う也

画【転倒者の透視図】


曲【疑問詞のエチュード
http://voon.jp/a/cast/?id=mdh01twt&c=1&t=1






近所の古本屋で買った。

日本教について』イザヤ・ベンダサン著、山本七平

文庫で80円だったので、読んでみるかと手を出した。なんとなく。
どこかで名前を見たか知らん、と思ったら書店で「空気の研究」か何かが再版されていたっけ。

三島由紀夫の檄文、靖国問題中韓軋轢、本多勝一への返書、五一五事件と三十五万通の減刑嘆願書、
などを取り上げつつ、日本人の政治・裁判・宗教・歴史に対する言動態度の分析や批判がなされている。
日本教○○派」「天秤世界」「実体語と空体語」など独特な用語が出てくる。

巻末を見れば〔文藝春秋1975年10月25日第1刷〕とのこと。
どれもこれも愚生の生前の事件・人物で、
当時の時代背景や雰囲気も併せてほとんど知らないので、読んだままを受け取る。
本文の言葉を借りるならば
「書かれた事実は”事実”とは限らないが、書かれたという事実は”事実”である」
とし、この時代にこういう考え方をした人が居たのだろう、位に。

読むうちに節々に違和感を覚え、(本当にこの人はユダヤ人なのか?)と疑問が湧き、
調べてみるに矢張りベンダサン=山本七平という説が強いらしい。
そこにどんな意図が有ったのか、本人に聞かにゃ分からないけど。

以前からネットに広がっていたらしい東アジアの問題、
中韓の怒りも、それに対する愛国保守者の怒りも、愚生には今一よく分からんのだけど、
外殻は分かってきたような気がしないでもない。
が、当時生きてた訳でも見て聞いてきた訳でもないので、実感には乏しい。
実感に乏しい物事に対して(例えば義憤・公憤・正義の怒り)、
そこまで怒ったり一生懸命になる事も難しい。

ただ、それらの仕組みを知りたいだけ。
門人物知らずだとブチ殺されても自己責任の世の中らしいよ知らんけどさ。


で、『人間ものがたり』を読むに、
古今世界各国の様々な政治体制、また国家の勃興没落をぺらーっと知り、
無教養の愚生から見たら平常「右も左も鳩も鷹もイデオロギ狂いは似た様なもんじゃねえか」と感じているのだけど。
全体主義専制主義、民主主義や社会共産主義、思想や政策だって、
共同体の利益を目指す為の方法の違いに過ぎず、よっぽど極端に触れるのでなければ、
良い悪いもそれを使う運営側の人間の手腕と協力者の理解に拠るものだろうと思う。

今の日本の”民主主義的自由競争資本主義”が有効に使いこなせているのかは愚生には分からないし、
どれが最も優れた政治体制という訳でもなかろうし、
だからこそ社会人ひとりひとりが参政して考えないといけないのだろう。

そこで、そもそも「社会って何さ?」と無知蒙昧なりに全く単純で考えると、
”巨大な互助機関”ではないか知らん、と思う。
人間が二人居れば、そこから社会が始まる。
まず人間一人では生きられない。
例えば「私は外で食い物で探してきます」「では私は住居を守ります」という風に、
生きる為には協力しなくてはいけない(協力した方が楽)ので、互助が契約として交わされる。
生物は繁殖によって命を繋いでいるので、
必然その最小単位は”家族”と呼ばれる所から始まって終わる。
人と人が家族、家族と家族がお隣さん、お隣さんとお隣さんが地域、
地域が市町村、市町村が都道府県、都道府県が地方、地方が国、
国が大陸だの世界だの人類だのまで行くともう収まりがつかないものの、
大小様々な共同体の縦糸や複雑で膨大な契約の横糸を解いていけば、互助と言う単純な実像が残る。
けんども、そこには更に、生活や文化や言語の違い、戦争や経済の影響、個人や集団の思想などが絡んでいるので、
単純に「みんなで助け合いましょう」では済まなくなっている。
(本当はそれは単純なんかではなく、何を差し置いても重要視する必要が有る事柄だとは思う、
 というのも、共同体維持の為には協力しなくてはいけない(協力した方が楽だ)から)
或る問題を、個別の面と社会の面の両方の問題として考えず「自己責任の一言」で済ます事の無責任さったらない、
って言ったら何だか如何にもっぽいですか無責任ですかそうですかそうです本当ですか嘘です。

愚生は為政者でもなければ経済学の研究者でもないので、詳しく知りようもないけれど。

個人的な肌身の感覚で言えば、特に不満は無い。
贅沢をしなければ独身者でもソレナリに生きられるし、
基本的に労働と衣食住さえ有れば、他は趣味娯楽に費やしても暮らしていける。
納税やふとした親切心以外は「自分は互助機関に生きて生かされている」という感覚も薄い。
別に大して不満も無いから、政治経済への関心も薄い。
考えてみれば、”行動”というのは、
何かしらの対象物への積極性(プラス面では熱や欲望、マイナス面では不安や恐怖)が有るから起きるのであって、
ほとんど欲望を持てない愚生には「今は何もしたくない」としか言えない。

で、歴史を見ても感じる基本的なパターンは、
『満たされた「何もしない」の平和』を『満たされない「何かしなければ!」の闘争』が壊し、
勝者が平和を得、それをまた闘争者が壊す、それが個人なり国家なりで繰り返されてきたらしいという事。
その理由付けは、土地、食物、金銭、宗教、征服、
しようと思えば何にだって関連付けて正当化する事は出来る。(たとえば肌の色なんかでも!)

そうするってえと、
『知足安分』というのは、社会を生きる人間としては実に理に適った態度だと思う。
んだけども、
一度崩れてしまった平穏は、喧しい戦争や飢餓、それによる憎悪や嫉妬の波紋となって響き合い、
もう収まる所も知らない。

刃や銃(言葉でさえ)を向けられたら、人は”強制的に”選ばなければいけない。
殊それが二元論の原理主義者であったりなんかしたら、生死を分かつ選択ぜよ。

出来る事は何か。
まず「何の為に」を自ら問い、ハッキリさせてみる必要がある。
お国の為って人は「愛国!」と叫んで異国者を締め出したりするだろうし、
弱者の為って人は「人権!」と叫んでボランティアに身を窶したりするだろう。
富財産や権勢を保持したい人、自分の幸福さえ守れればそれで良い人、
隣の国や人の財産を奪ってでも豊かになりたい人、何を捨て置いても打ち込みたい物事がある人、
何もしたくない人(「何もしない」で済む為にしなければならない手続きもある)、
「何の為に」を自覚する必要がある。
何を欲望し、何に関心を抱き、何に不満を抱き、何を求めているのか、
”自己認識”の必要。
これは他人に強要する事は出来ない、しても意味が無い。
自発的に行われなくては、真っ当に行われない。


思考は分散する、
矛盾や支離滅裂も有る、
何も論文を書けって訳ではない、
正しいだの間違いだのって話でもない、
ポン、ポン、と断続的に思考を放る、
(一つに寄り合わせる、というのは危険を伴うから)
単に自己を認識する作業、
これは「何もしない」で済む一種の方法。

俺は低俗で愚劣で無能で下種、という自覚。
そこから何をするか、という段取り。



(酷い乱文失敬)