上りなさい。あるいは下りなさい。どちらも同じ事だよ(笑)

【絵】

『溶解』



【曲】

『とんぴん・からんこぁ・ねっけどは』
http://voon.jp/a/cast/?id=psg833genw2i1vj0&c=8&t=1

津軽地方の民話などで最後に付け加えられる言葉で、
 おそらく「めでたし、めでたし」位の意味です。


 *



寂しさ、怒り、劣等感、自信の無さ、嫉妬、迷い、混乱、
そういった思春期特有の(と呼ばれている)問題に若かりし僕は囚われていて、
大変に不自由していましたが、今はそうでもありません。
今も入っていて、それらと共にあります。

(内面の話をするとすぐ「メンヘルw」「宗教儲ww」「中二病www」
 とか言い出すような思考停止の輩は置いてくで。義務教育やないんやからね)


当時の本人にとっては真剣な問題でしたが、大人は誰も導いてはくれませんでした。
何故なら、彼らも誰にも教わっていないか、それらを真剣に考えていないからです。
(もしも真剣に考えるなら、子供や若者を放っておく事はしないでしょう)
人が生きている中で誰もが皆関わっている問題なのに、
関心や興味を逸らしたり、虚偽で誤魔化したり、安易に方法や結果を与えたり、
趣味娯楽などの代償・代替で済ませたり、「考えても仕方が無い」と回避したり、
伝統や知識や迷信が用意した雛形に嵌め込んで解決したつもりになったり、
そのうち鈍感さと共に忘れてしています。
(一時忘れるだけで、それらは何度でも襲ってきます)


今なら、「一緒に見出してみよう」と言えます。
僕たちは本当は何も知りません。
個人は、卑近な思い込みと、人類が積み上げた過去を僅かに持っているだけです。
それなのに、しばしば他者や子供に”古い所有物”を押し付け、
それを”さも真実かのように”教え、従わせようとします。
これでは自分も相手も、事実を理解する事にはなりません、
従って、問題の根本的な解決にもなりません。


僕は何故すぐに”方法”に頼るのでしょうか
理論や方法は型であり、その仕組みは条件付けです
僕は問題も知らずに解答だけ求めます
そして答えの決まっている道筋は嘘です
「こうすればああなれる」
「これを経験しなければ分からない」
訓練や修行、勉強、恋愛、仕事、様々物事を理由に、
結果の決まっている方式に従い、自他を閉鎖的関係に押し込んでいきます
お互いに条件付けし合っていきます
生活の為の技術としてある種の理論や方法は必要ですが、
心理的なそれは、害悪です


では、僕は、どう生きるでしょうか。
肉体の面では、必要な衣食住による細胞の維持。
精神の面では、自分と人、物、環境、過去など、自分と何かの”関係”です。
そして、人は社会に生きています。
社会を最も単純な構成に還元すれば、「わたし」と「あなた」です。
肉体面でも精神面でも、僕は”関係”によって生きています。



生は絶え間も止め処も無い
そのまま在る事実、それらの複雑な関係
その「動き」を「見る」こと、「感じる」ことにより
神経や感覚は「刺激」として捉え、「反応」します
咄嗟に対応します、行為があります、次に、
思考が働き、知識や経験が蒸し返され、
記憶や願望が呼び起こされ、感情が動き、
比較、計測、選択などを通じて評価や判断を下し、
迅速に、緩慢に、対応していきます。

これら一連の仕組みによって、更なる経験の蓄積と再構成、
自我の膨張、観念の強化があり、凡庸な僕は繰り返します。



事実から遠くにあるものは”虚偽”です
全く虚偽を削いだもの、つまり単純な事実、
事実と共にあるもの(あるいは事実そのもの)だけが”真実”で、
僕は常に事実から逃げようとします
何故なら事実は恐怖や苦痛を伴うからです
どうして恐怖や苦痛を感じるかと言えば、精神に虚偽があるからです
夢、目標、理想、想像、幻想、願望、羨望、道徳的価値、社会的評価、良いイメージ、
それらは”今ある姿”という事実からは遠い”在るべき姿”であって、
社会に奨励されている類の、態のよい虚偽です
事実と虚偽のギャップ、間隙、この空間に、
苦痛があり、恐怖が湧き、問題が生まれます
僕は事実と離れる事は出来ません
だからこそ虚偽に逃げ込む程、僕は事実に傷付けられ、恐怖を感じます
虚偽に逃げ込む為の道筋を、現代社会は無数に用意してくれています
酒、煙草、噂、娯楽、テレビ、ラジオ、ネット、地位、肩書き、権力、
商売、議論、芸術、政治、快楽、暴力、競争、煽動、宗教、金銭、戦争、
要するに、生から離れ、事実から遠いほど、僕は豊かだと感じます
しかし同時に、虚偽が破壊的である事も明らかです
一つ一つ詳細に見ていけば、虚偽は僕や君の肉体や精神を殺します
苦痛を感じながらも事実と共に在るよりも、
安楽を感じながら虚偽に殺される方を選ぶ時、僕は死んでいます
死んでいれば、鈍感で無思慮になり、事実とは関わりを持たなくなります
世界と、他者と、事実と関係を切ることは、死です
虚偽を完全に放棄する事は出来るでしょうか
単に物や財産を捨てて修行僧や隠遁者になることも虚偽です
それは”反・虚偽”であって、反応に対する反応、
対立物への反動に過ぎず、混乱の産物です

また、”真実”や、その中の”真理”の追求も無意味です
誰がそれを知っていますか、それは”未知のもの”です、
何故なら”既知のもの”は知識、過去で、既に得られたもの、古いものです
仮に、真理が過去であり古いものだとして、
現在という”新しいもの”に対応できるでしょうか、
”新しいもの”に対応できるのは現在だけです、
”既知のもの”は、既に事実から引き離されているからです
「自分は真実を発見した」という人は、
それが聖人やグルであれ、哲学者や権力者であれ、虚偽であり、破壊的な人です
何故なら、それを発見する為には、事前に”知って”いなければいけません
”未知のもの”を発見し、認識する事は出来ません
発見とは、感覚から得る刺激と、経験の中の知識を照合する行為だからです
言葉や思考が表すものは、言葉の範疇、思考の範疇まで、その外は表面的です、
僕が”新しいもの”と出会うとき、発見するとき、
僕はそれを認識できません、だから発見も出来ません、言葉にも出来ません
修行や訓練によって”真理”へと至る事は出来ません、
形式的な条件付けによって決定された結果へ行き着くだけです
信仰や信念も虚偽です


これら叙述が僕の”逃避”の工程です。

事実は常にあります
心が目を曇らせ、頭を鈍らせます
自己中心的で他者に冷淡、臆病で矮小で怠惰、無気力で孤立している凡愚、
何の卑下も無く認識する時、それが事実で、
ここからどのような大義名分で離れようと、それは虚偽です
虚偽を重ねる事は、矛盾や葛藤を増やすだけです
事実の理解でしか、問題は解決されません



何か問題がありますか。
不満、矛盾、葛藤を感じますか。
好き嫌い、快楽苦痛、思考や感情の動き、
そういった「関係への反応」に自ら気付く事によって、
僕は自分の心、問題、条件付けを発見します。
それは瞬間的で、更に、探求します、


思考は分断で、知識は断片的で、意見は偏狭です。

僕は、思考の自閉性、排他性、独善性、孤立性、そういった破壊的な属性、作用を見ます。

思考は”過去”を引き摺りだし、それを精神に注ぎ込んで操作します
操作された精神は事実から目を逸らし、次々と虚偽を生み出します
何故なら、過去は現在を見ないからです
知識や情報や記憶を宛がう時、
「現在の事実」は「過去を基準とした解釈」に殺されます、


僕が「あの絵は美しい」と言う時、
本当は絵なんて見ていなくて、その言葉は過去を指しています。
何故なら、今まで教えられてきた”美醜”や”絵画”に関する知識や情報、
噂や売り文句、自らの思い込みや気分などから引き出された言葉に過ぎないからです。
これは暴力的な無思慮で、現在そこにある”絵”を破壊する行為です。
現在の破壊は、過去に耽溺し、非生産的で、反芻的感傷に没するだけです。
目の前の絵を見るなら、僕は言葉を持たず、
美醜や絵画の観念といった過去から自由である必要があります。
目や頭に仕掛けられた過去、思考の罠の仕組みを理解し、解除しない限り、
僕は絵を見ずに、自家製の過去を指しながら、美しいだの醜いだの言い続けます。

技術的な修練は勿論必要なのですが、
それと共に、心理的なものを含めた過去の強化にも、注意する必要があります
それは、自我の膨張させ、目を曇らせていく工程でもあります。
僕が絵を見たいなら、誰の助けも必要なく、ただ”見る”だけです
その時、美醜や正誤は問題になりません

絵や音楽などに限らず、物や人間に関しても、あらゆる関係には同様に、
「これは云々の道具である」「この人は●●だ」というラベル付けを行う時、
実は対象など見ておらず、過去の事を言っています。
また、それらに対する僕の様々な反応も過去の産物です。
そして過去を見ている限り、現在を理解せず、破壊し続けます。


過去への執着は、今を生きないという事です。
また、未来を目指す事も同様です。
何故なら、未来は過去の投影物だからです。

執着、愛着、撞着、特定対象へ縛られた精神は不自由で凡庸です。

知識への耽溺も、ブランド商品の蒐集も、
依存には貴賎などなく、同じく暴力的です。


問題はなんでしょうか。

例えば”自信”について。
「自信が無い」と言う時、自信とは何を意味していますか。
どうして、自信が無ければいけない、と考えますか。
「うまくできないかも知れない」という思いから、ですか。
それとも、自信が有る人と自分とを比べて、ですか。

例えば”嫉妬”について。
何に、誰に、対しての、どのような嫉妬ですか。
その前に、嫉妬という感情は何でしょうか。
僕や君は、嫉妬と名付けられる前の、その感情を知っているでしょうか。
既に持っているものに対して、その所有物を失う事への恐怖でしょうか。
または、未だ持ちえぬものに対して、嫉妬する事は出来るでしょうか。

例えば”怒り”について。
どんな時に怒りを感じますか。
侮辱された時、持ち物が奪われた時、自分の信じる正義に反する時、
漠然とした怒りですか、対象への怒りですか。

たとえば”嗜好”について。
好き嫌いは、蓄積された快楽と苦痛の経験から来る判断です。
その視野や反応は個人的歴史の範疇を越えません。
更に、繰り返すことによって強化され、孤立を招きます。


事実と、纏わる関係


僕は何を恐れているのか。
衣食住の危うさ、仲間の少なさ、収入の低さ、評価の無さ、
失う事を恐れる、持たなさを恐れる、というのは、所有物の有無や多少、
あるいは、安心や安定への意識から来る防御、抵抗。
どうして、より多く、より永く、「所有しよう」とする願望があるのだろうか。
持っていない、という事が、どうしてこれほど恐怖なのだろう。
安心や安定を求める時の、回顧、感傷、自己中心の選択、過去への固執

僕の攻撃性は、自身の恐怖への抵抗ではないか。
そして抵抗は、結果的に周囲に不和や混乱を招く。


恐怖なく生きるには、理解する必要がある、
それは何を得るよりも重要な、